今は試験休みなんかないんだよ、と、いきなり切り出された。
何の話だと困惑して、言葉だけからじゃ判断がつかない。もっと他に得られる情報はないものかと、顔を上げることになり、声の主のほうを向く。
こちらを向かせようと思って言葉を選び、待ち構えていたらしい、目が合って、微笑まれた。
おかしいな、確か喧嘩の真っ最中じゃなかったか。
もうしらない、もうきらい、って言ったのはどの口だったか。
そんなことを考えるから、思わず顔をしかめてしまう。すぐに表情を引き締めて、極力無表情に見える顔を意図的に作ったのだが、相手は目敏く、こっちの思考を読み取ったようで、膨れっ面を作る。
今の笑顔は目の錯覚です。私はまだ怒ってるんです。許してなんかあげてません。そういう顔なのだ。
長い付き合いなので、よくわかる。
そう、長い付き合いだ、相手が生まれてからずっとお隣さんなんだから。
十も年下の彼女がいると打ち明ければ、ロリコンだの変態だの言われかねない、と、付き合うことになった当初は思っていたものだったが、そういうものは時間の経過で解決するものなのだということが、このところわかってきた。
こっちの年齢が三十に手が届く頃には、彼女の年齢も二十に手が届く頃だ。
十の差が、年とともに気にならなくなっていく、というのもある。
気分的なものとしてもそうだが、学生の頃のように学年の差を大きく感じる環境がなくなるせいでもあるんだろう。
とはいえ、十八歳の彼女と二十八歳の彼氏では、やっぱりまだ、おとなとこども、だ。
日頃、急な仕事で、ふたりで出かける約束をキャンセルすることもしばしばで、好きなひとと少しでも一緒にいたいという気持ちを抑える術に乏しいことに年齢も関係しているから、機嫌を損ねられたりもしたし、淋しい顔をさせてこっちも苦しく思ったりしたもんだった。
そういうことも、彼女が歳を重ねるに連れて減ってきたのは事実だ。
そろそろ期末試験も終わって、試験休みに入る頃だろう、と、早々と推薦入試で大学進学を決めていた高校生の彼女に、俺が言ったのは十二月の半ばだ。
俺は大学には行ってないが、高校には行ってる。とはいえ遠い記憶であることは確かで、それを呼び起こしつつ、日頃の埋め合わせ的なことを企んでそう持ちかけた。
泊りがけでとかいう不埒な真似はさすがにしないが、久々に車で遠出するのもいいかと思った。平日なら空いていて、どこへ行くにも気ままなもんだという軽い気持ちだった。
行けない、と、彼女が即答したのがいけなかった。
せめて、どういう事情で駄目なのか、説明をくれていれば。
今になって思えばそんなものは全部、こっちの勝手な理屈だったわけだが、さっと頭に血が上った。
下らない言い合いは割としょっちゅうするが、あれはめずらしく喧嘩に発展したのだ。
もうしらない、もうきらい。
そんな捨て台詞を残して、彼女はさっさと部屋を出て行った。
いつも、そっちが約束破っても、我慢してるのに。何で私が駄目だと、そんなに怒るの。
泣きそうな声でつぶやかれて、内心かなり焦った。でも、突き放すような言葉に、ああそうか、俺も知るか、と、冷静ではない精神はあっさり沸騰した。
以来、年越し、正月も関係なく仕事が入ってくるこっちは、普段と変わりなく仕事三昧、隣に住んでる彼女と顔を合わせる機会はなかった。
やっと取れた代休で、家でごろごろしていたら、突然彼女がやってきたのだ。
お隣のお嬢さんに甘いうちの親は、彼女を招き入れて、自分はさっさと買い物だか観劇だかにいそいそと出かけてしまったらしい。
仲直りらしいことをする余裕もなく顔を合わせても、気まずいし。言葉も出てこない。
そこにいるのにいないように、こっちは振る舞ってみた。喉が渇いたから無言で立ち上がり、二階から下りて台所で茶を淹れる。彼女はとことこと、親鳥の後を歩く雛鳥みたいに後をついてきて、お茶を淹れようと急須を構えた俺の湯飲みの隣に、自分専用になっているマグカップを、当たり前のように、無言のまま、置いたのだ。
平日の真っ昼間に、この高校生は何をしてやがるんだと、思ったけど言わなかった。喧嘩の真っ最中だからだ。
置かれたマグカップにまず茶を注いでから、余りを自分の湯飲みに注いで、でも手渡してなどやらずに自分の湯飲みだけ持って居間に移る。
ろくな番組がないのは、新聞のテレビ欄にざっと目を通すだけでわかったので、リモコンには手を伸ばさなかった。
茶を飲んで、新聞をぱらぱらとめくって。
ソファでふんぞり返ってたら、ちょこんと、当然のように隣に座ってきた。
試験休みは駄目で、平日のはずの今は何で空いてるんだか、と、思ったけど言わない。
もう一度喧嘩を始める気には、なれない。
でも、謝るとか、仲直りのきっかけをこっちから作るのは、俺は、自慢じゃないが、ものすごく下手なのだ。
無言のまま、やっぱりそこにいないもののように振る舞うので、精一杯だ。
そんなときに彼女が口を開いたのだ。
「今は試験休みなんかないんだよ」
沈黙の後、同じ言葉が繰り返された。
仕切りなおし、やり直し、みたいな感じで。
「……何の話だ」
仕方なくを装って、応じてやる。すると、説明をくれる。
「十年前は、あったんだろうけど。今はね、週休二日制になったから、授業、やらないと追いつかないから、ないんだよ」
その説明で、俺が彼女の試験休みを当てにして誘いをかけたのだと彼女が知っていること、彼女が応じられなかったわけの両方が明らかになった。
そうか、今は、ないのか。
そう、思ったが言えなかった。何か、ジェネレーションギャップを痛感するのはこういうときだけど、久しくなかった感覚だから、堪えるなあと、ほろ苦い気分に陥ったのだ。
この状況でもまだ素直に謝ることなどできない俺は、下手な反撃を試みる。
「じゃあ、何で今日はいるんだ。学校、あるだろうが」
下手な反撃は、勿論効かないもんだ。
「今日、受験やってるから。在校生はみんな休み」
その高校に来春入学を目指すやつらのために受験会場として使われる。そういうときは、一部の生徒以外は一斉に休みで、部活も禁止、もっと言えば校内立ち入りも禁止になる。
ああ、そういうの、あったわ、俺の頃も。
さすがに言い返せない。
ここで、ごめん、悪かった、と、頭を下げてしまえばいいのに。
まだできない。
まあ、そういう俺なんか、十も年下だからっていっても彼女にはお見通しで、だから。
「今日なら空いてるんだけど、誘ってくれないのかなあ……久し振りに、一緒に出かけたいなあ」
わざとらしい科白ではあるが、彼女のほうから、きっかけをくれる。
俺はそれに、いつものように、ぶっきらぼうな態度のまま、しょうがねえなと乗っかればいいのだ。
多分、いつかは、わざとらしく聞こえてしまうような言い方を、彼女もしなくて済むくらい慣れて、上達するんだろう。
本当は、そんなこと、言わせないのが一番いいんだが。やっぱりなかなかできない。
でも。
多分、いつか。
歳の差が、少しも感じられなくなるくらいになる頃には。
約束などしなくても、一緒にいるのが当たり前になる頃には。
だからってそんな、漠然とした予想というか願望というか、はっきりしないものを、言うわけにもいかないので、俺は答える。
「今日は駄目」
予定があるわけでも何でもない、今から車を出してもいいし、電車に乗って、あげられなかったクリスマスプレゼントの埋め合わせになるようなものの買い物に出かけたって構わない。
でも、それはまた今度でもできるから、とりあえず今は。
断りの言葉に目に見えてがっかりした彼女の手と、自分の手から、マグカップも湯飲みも新聞も放して、空いた両腕で抱き締める。
途惑ったように身じろぐ彼女の耳元で、
「補給させろ」
とささやくと、諦めておとなしくなった。
伝わる体温に、ああ、これがずっと欲しかったんだ、と、自分でも思いがけないほどほっとして。
補給なんて言ったけど、満たされることなど一生来ないんだと、頭に浮かんだ気障な科白に呆れたけど、事実だと認める。
この恥ずかしい言葉を、俺は真顔で彼女に伝える日が来るという想像は、現実になる日がくるだろう。多分、いつか。
(end)