さらさらの黒髪、しなやかな指、ととのった爪のかたち。
男にそういうもんは、不要だろう、と。
私なら言っても許されるだろう。
雨が降り出さずとも湿度が上がっただけでうねり始めるくせ毛、空手をやっていたわけでもなく瓦一枚叩き割れやしないのに逞しい手、水仕事に励まなくともかさついてささくれ立つ指先。
きれいなものが欲しいと、憧れないわけではない。手入れを怠っているつもりもない。
それでも、髪も手も、勿論他のパーツも、特別とは行かないまでもせめて、平均点レベルくらいにはと思うのに、それさえ我が侭だということなのだろうか、望みが叶った例はない。
そういう、私が求めて止まないものを、どうして。
「んー? お手入れ? するかよんなもん、めんどくせえ」
などときっぱり、吐き捨てるように言う男が、全部持っているのか。
ずるい。強く思うけど、そのままを口には出さない。
「……絶対無駄だ、資源の無駄」
男にしておくのは惜しい、という言葉を使うのは、正に今だ。本当にそう思う。
一部のパーツだけが見目麗しいのなら、まだ許せたかもしれないが、こいつは。
「資源とか。無機物扱いかよ、俺。おまえくらいだぞー俺にそういう不遜な物言いして許されてんの」
この発言が嘘ではない証拠に、ついさっき、ふたり並んで歩いているところに、待ち伏せていたらしい女の子の突撃があったのだ。
なかなかにかわいらしい容姿の女の子で、顔を真っ赤にしている様は初々しく、ああ、本当に好きなんだなあ、と、よくわかった。
好かれているのは勿論私ではなく隣にいる男であって、私が男なら間違っても断ったりしないだろうが、ごめんね、と、たったひとことと笑顔だけで、女の子の精一杯らしい告白は斬り捨てられた。
いえ、いいんです、いきなりすみません。そう、涙がこぼれそうなほどに目を潤ませて、女の子は頭を下げた。
頭を上げるのを待ちきれずに振り向く最中、ほんの一瞬。
女の子の、少しも初々しくない、恐ろしく鋭い一瞥が向けられたのは、私だ。
その目は雄弁に語る。おまえは不釣合いだ、何故このひとの隣にいるのがおまえなんだ。
「好きでもない男にやさしくなんて、しないよ、めんどくさい」
そうでなくても、こいつと親しくしているだけで、身に覚えのない恨みを、密かに買っているらしいのに。
どこがいいのかなあと思う。この整った容姿だというのなら、重要なのは入れ物だけ、中身はどうでもいいっていうのかと指摘したい。
でもまあ、私以外には、やさしいのかもしれない。見てくれはいいという評価が、ちょっとやさしくされただけで恋に落ちてしまえる程の効果は生むのかも。
幼い頃から知っている相手なので、そのちょっとやさしくっていうのが猫を被っているが故のことということもわかっている。
そういう相手に、今更やさしくされたところで惚れたりしないし、こいつだって私にそんな反応を期待してやさしくなんてしないだろう。
成長とともに見た目は整って、数年前の写真と見比べると別人かと思うような変貌を遂げている男の隣で、私は、いつまでも冴えない風貌のまま、ああ、この数年後がこうなるのは当然ですよね、と、誰もが口を揃えるような状態だ。
男はきれいじゃなくても何とかなるだろう、女はそうはいかないんだ、と、誰に対してでも言いたくなりはしない。こいつだからだ。
昔はそれほど美形じゃなかったのにと、羨ましくなるからだ。
自分だって、成長とともにそれなりの容姿に整っていくものと、幼い頃に信じて疑わなかったことは、現実にはならなかった。それで、置いていかれたような、妬ましいような気持ちを抱える。
そのどれかひとつがあんたになくても、困らないでしょう、だから、どれかひとつくらい、わたしにちょうだいよ、と。
言わないけれど。
そんなことは絶対に、言ってなどやらない。
既にたくさんのものを両手から溢れさせんばかりに抱えているやつに、これ以上何かを、私から与えるのは、どうにも悔しいから。
それだけだ。きれいなだけの男に興味はない。隣にいる男に向ける眼差しと百八十度違う、恐ろしく鋭い目つきで私を見ていく女の子たちには、いつだって、安心しろ、あんたらの王子様に私は全く惚れる気配はないんだと、教えてあげたい気持ちだ。
こいつだって私に執拗に構うわけじゃない。古くからのなじみで、今更気を遣い合う仲でもない気安さで、何となく近くにいることが多いだけの話だ。
私の好みは、見た目はどうでもいいから、強いひと。
こいつではありえないのになあと、渡り廊下を並んで歩きながら、横顔を覗き見た。
正面を向いて歩いている相手とは、目は合わない。目が合うなんていう状況は、想定していなかった。
なのに、こいつは。
ぱっと私のほうを見た。
その表情が、見慣れない険しさを一瞬で帯びる。
次の瞬間に顔は見えなくなった。
ぱし、と、小気味いい音が近くで鳴って、この音の発生源は何かなと気にかけたときの私の視界には、何も映っていなかった。
正確には、覆われて何も見えなかった。
「……おー、危ねえなあ」
そんな声が、聴き慣れない聞こえ方をした。
何故かと確かめたくて、視界を取り戻したくてもがこうとする私を、がっちりと抑えている何か。
それは温かく、思ったより頼りなくもなく。
大丈夫か、と、私を案じているらしい声を、私の体に直接伝達してきた。
がっちりと、抱え込まれているのだ。
遠くからぱたぱたと駆けて来る足音が、すいませーんという声と一緒に聞こえてくるのだが、どちらも遠い。
「気をつけろよー」
これは近すぎる。
しかも、私を抱え込んだままで、何かを投げる動作をしたらしい。遠くで、野球のグラブか何かがボールをキャッチしたときに立てるような音がして、足音は遠ざかっていった。
「危なかったなあまじで。俺が気づいてなかったらおまえのこめかみ直撃コースだったぞ絶対」
野球部の誰かの打球が、どういうわけだか飛んできて、それを素手でキャッチしつつ私を庇った、ということなのか、こいつは。
そういう推測は立てられたが、この体勢をどうにかしようともがいているのに、一向に振り解けないでいる。思いがけず、力が強い、こいつ。
「まあまあ、そう暴れなくても」
よっこいしょ、という掛け声とともに、私は抱き締め直された。胸元に押し付けるようにされていた顔が解放されて、にやりって感じの笑みを浮かべるやつと目が合った。
「おまえさあ、俺のこと、見た目だけのやつだと思ってただろ。こういうこともできちゃうんですけど。惚れない?」
「……は?」
「中身が整うようなお手入れは、手抜かりなくやってきてるんですけど。惚れないの?」
何の話だと、混乱する。
「外見のことはめんどくせえから努力してねえの。中身のない軽薄なの、おまえ嫌いだろ。だから、そのほかで努力はしてんの。でもおまえ、俺のことなんか全然眼中にねえんだもん。こういうことも普通にできるんですけどっていうのを目の当たりにした今、少しくらい見直してくれちゃったりしねえの?」
混乱しながら、私に辛うじてわかったことは、野球のボールと一緒に、恋も降ってきたらしい、ということだ。
唐突に告白を受けた、という意味ではなくて。
うっかり惚れそうだ、ってこと。
真っ赤になってるだろう顔を隠すことは許されず、楽しげな笑顔に見下ろされている。
さらさらの髪は艶やかに光を反射していて、整った爪を持つ指が頬を撫でてくる。
ずるい。強く思うから、好きになっちゃいそうだなんて、口には出せない。
(end)