彼の恋人 --- daily memo log (03/05/04-05)
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(03 5/4)
 
 彼の彼女、つまり恋人は、私の従姉妹だ。
 
 それなりに親戚付き合いもあるけれど、本音を言えば、別に親しいわけじゃない。同い年の従姉妹とは、とにかく、考え方とか好みとか、合わない。
 本人同士、そのことについてはよくわかってる。と思う。少なくとも私は、嫌っていうほどわかってる。だから、第三者の目から見ても、絶対に仲が良さそうに見えたりはしないだろう。第一、顔だって全然似てないから、従姉妹だって気づく人の方が少ない。さほど珍しくない名字、同じだからって親戚関係にあるなんて、いちいち疑ってかかったりはしないだろうし。
 真相を知った人からは、本当に似てないね、という言葉が一番多く吐き出される。そいつが男だった場合、かなりの確率で従姉妹を紹介しろと言ってくる。従姉妹に近づきたい為だけに、私に近づいてくる露骨な奴もいる。
 お嬢様学校として有名な私立大学に通う従姉妹は、はっきり言って、美人だ。違う大学にまでファンがいるような、モデルだの何だのにスカウトとかもされそうな、そういう容姿を持っている。
 そんな彼女と血のつながりがあるとは到底思えない程に平凡な外見かつ中身を持った私。
 合わないのは、私の中にある僻みや妬みなのかと疑った頃もあった。少しはそういう感情も働いているだろうことは認めざるを得ないけれど、でも、違う。
 見た目とか持ってる金だとか学歴だとか何だとか、そういうのを持ってる男をアクセサリーみたいにとっかえひっかえするような、そういう感覚が、理解できない。体験していないからわからないとかそういう意味でなく、それを良しとする思考回路が理解不能なのだ。
 今後もきっと、親しくすることはないだろう。
 そう思ってた。
 従姉妹が私に、私と同じ大学に通っている、友達を紹介しろと言ってくるまでは。
 
 見た目も良くて、家も金持ち、二十歳にして馬鹿高い外車を乗り回してる、けど馬鹿じゃない、性格も良好、そんな好条件の男はそうはいない。
 彼は、その条件を全て満たしてる、とにかくいい男としか評価できないような奴だ。
 大学に入って知り合った彼とは、まあまあ親しい友達付き合いをしてきた。
 そして、やっぱり好条件ばかりを持った完璧な人間なんかいないもんなんだと私は知った。
 ちょっと、抜けているのだ、彼は。
 大らかと言えなくもないのだろうが、いちいち失態をしでかす。
 六ヶ月間の通学定期を買ったその日に落としたり、駆け込み乗車をしてくる友達の為に力任せにドアをこじ開けて電車を止めたり、ちょっとではすまない規模であることも時々ある。
 私だったら、六ヶ月間の通学定期を即買いなおすだけの金銭的余裕はないし、友達の為にだろうと電気の力で閉じようとするドアを自分の力を消費して開けることは無駄だと思うだろう。
 小さなことなら数え切れない。意図的でないにしても、彼は、確かにトラブルメーカーだ。時々は巻き込まれて面倒なことになったりもするが、それでも彼は友達だ。
 彼だけは、従姉妹に近づいた後も、私にも親切なままだった。
 
 橋渡しのような、伝書鳩のような存在になりつつあることを自覚している。
 ごめんねーと口先だけで言う彼女と、手を合わせて頭をぺこぺこ下げる彼の間を、うろちょろしている。
 ドライブに行きたいからって、忘れないように連呼しといてね。ゴールデンウィークの、天気のいい日。デートには最適。携帯電話だってEメールだってあるのに、美しい私の従姉妹はそんなことを私にしつこく言う。
 私に自慢してもしょうがないでしょうに、とか思ってしまうのは僻みや妬みかもしれない。でも、計算高い従姉妹の、これまた高いプライドを満たす為の言葉かもしれないとも思う。それこそ僻みや妬みだろうに。
 その伝言を伝えたら、彼は、そういえば、と情けない思い出話を始めた。
 私と彼の共通の思い出。車で来たから家まで送るよと私を新車の助手席に座らせた。家に着く前にガソリンがなくなって、ぴかぴかの外車はただの箱に成り下がった。こんなフィクションじみたこと、なかなか現実で起こす奴はいないよと、呆れを通り越して感心さえして、私は呟いた。彼はおどけて、お褒めに預かり光栄です、と笑った。
 
 記憶の中のあの笑顔だけは、従姉妹のものにはならない。
 そんな風に思うのは、僻みや妬みが引き起こす、つまらない競争心のせいだと思ってた。
 
 そういえば、あれ以来助手席に乗ってくれないよね。
 彼の言葉が、ぽつりとこぼれ落ちて、水溜りに波紋が広がるみたいに、私の心を波打たせた。
 
 私と従姉妹の家は、徒歩五分以内の距離にある。ついでに言うと一本道だ。
 
 大通りへ出る道の途中に家があって、従姉妹の家の前から車を出す時は家の前を通っていく。家よりお金持ちの従姉妹の家の車は一応高級車の部類に入るもので、古くならないうちに新車種に乗りかえていることも知っている。
 そして今日は。
 私が実際に乗車したことのある車が、目の前を通って行った。狭いとは言わないが、広いとも言えない幅の道路を、早いとは言わないが、遅いとも言えない速度で。
 ちらりと見えた運転席の人物の表情は。
 どう見ても、焦って慌てて、落ち着き払ってなんかいない、そういう表情だった。
 私が従姉妹にしつこいくらいに駄目押しされた、彼が彼女をお迎えに上がる時間は、今から約十分前。待たされるのを嫌う、というより、自分が待たされる事態などありえないとさえ思っていそうな彼女の、不機嫌な表情は簡単に思い浮かぶ。
 十分くらい、私なら怒らない。
 そんな考えがふと頭を過ぎって、思考は一瞬停止。馬鹿馬鹿しい、と首を振るう。
 思考が停止する程の衝撃も、馬鹿馬鹿しいのも、私が彼に待たされる立場に立つことがありえないせいじゃない。そんなことを、考えてしまう自分の頭がどうにかなってしまったんじゃないのかと。
 私なら、と。そんなことを考えてしまうくらい彼の存在が私の中で大きいなんてことは、認めるわけにはいかない。
 もう一度首を振る。
 車はもう見えない程小さくなっている。
 
 感情が波打つ。色はわからない。
 
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(03 5/5)

 ゴールデンウィークだろうと平日だろうと、用事のない日は何の用事もない。ならばと、家事を手伝ってみたりする。嫌いではない。初夏を思わせる高い気温の中でだろうと、表に出て掃き掃除をすることも、植木に水をやることも。
 そうしている内に、見覚えのある、乗ったこともある車がまた走ってきた。
 運転席には彼が、助手席には彼女が座ってる。
 車が通過するわずかな時間で、そんなものがはっきりと見えて認識できてしまうのが、何だか少し悲しい。しかも、向こうはこっちのことなんか気づいてもいないんだから、また悲しい。
 いたたまれないって、こういう感じ。手にした箒を、気づいたらすがるみたいにぎゅっと握ってた。
 もう家に入ろう。最終的にそう決めるまでに、車が通り過ぎた時点から、多分一秒くらい。頭の中をざあっと通り過ぎていく思考。暗いところから強い陽射しの当たる日向へ急に出たときに似た、強烈な感覚を覚える。
 本当に眩暈がしてしまったみたいに一瞬目を瞑った。そこへ、ぱしんと軽い衝撃を伴って、何かがぶつかってきた。
 風に舞い上げられた落ち葉などでなく、明らかに人工物らしい感触の物体は、額に当たり、それからぽとりと手の中に落ちた。
 ビニール製の、何かカードを入れておくケース。柄からして、特定のものを入れておく目的で作られたもの。緑色の。
 開かなくても中身は想像がついた。何でこんなものが宙を舞って額にぶつかってくるのかという疑問は当然だと思いつつ、ケースを開く。
 驚いて、その後、何だか納得してしまった。
 本籍地、氏名、写真。車の免許証だ。驚いたのは、それが免許証だったからではなくて、よく知る名前と顔がそこにあったからだ。
 あの馬鹿。
 彼と知り合ってから、何度この台詞を口に出したことか。責めるような口調が諦めにも似た呆れに変わっても、私は、彼が何かをしでかす度に必ずこう言った。例え彼が目の前にいても、『あの』が『この』に変わるだけ。
 それを聞く彼の表情は、ものすごく困って、情けないと明らかに伝わってくるというのに、どうしようもなく嬉しそうな笑みでもあったのだ。
 その笑みは今目の前にない。私にだけでなく、私の従姉妹にも、彼は、あの笑みを見せるのだろうか。
 彼の笑みで私だけのものなんて、本当には、ないんだ。
 そんなことは、最初からわかりきっていたはずだったのに。
 私の手の中にあるもの。これがここにあるということは、彼は今無免許運転中というわけだ。うっかり検問なんかに引っかかったらかなり面倒。助手席の見栄っ張りな彼女は、そんな事態を笑って許すことなどないだろう。
 電話で知らせてやるか、とポケットを探ろうとして、携帯は玄関の下駄箱の上だったと思い出し、屋内へ戻ろうとした。  その時。
 遠くから、かなりのスピードで、そしてその運転はかなり乱雑な、見覚えのある車が走ってくるのに気づいた。
 遠くからでもわかる。車種も色も、そして助手席にいる存在も。
 助手席の存在の方に先に意識が行ってしまった。
 今彼の車を運転しているのは、従姉妹だった。
 
 携帯に電話をすると、しばらくして彼の車が緩やかに走ってきて、家の前で停まった。
 運転席の窓が開いて、私がいつもあの馬鹿と言ってやった後みたいな笑みの彼が顔を出す。助手席は、空。
「無免許運転」
 ぺしんと、額に免許証のケースを当ててやる。
「すまんな」
 額にくっついた免許証を取ろうと彼の手が動く。額に免許証を押し付ける形になっているままの私の手と、わずかに触れ合う。
「何で、免許証が風に乗って飛んでくるの」
「あー、あの、またやっちゃったみたいで」
 ごにょごにょと、言葉を濁しながらも、彼は状況を説明してくれた。
 彼女を迎えに行き、助手席側のドアを外から開けて彼女をエスコートする時、車の屋根の上に、どういうわけか免許証をぽいっと置いてしまった、と。それで、そのまま免許証を屋根に乗せたまま、車を走らせてしまった、と。
「そんな馬鹿、あんたぐらいよ」
 さすがにちょっと笑ってしまう。彼も笑っているから、ここに免許証もあるから、それで何の問題もないんだと、私は判断した。
「ほら、免許証も見つかったし。迎えに行っといで。ドライブするんでしょ?あんまり待たせるとますますご機嫌斜めになるよ」
 今ここにいない従姉妹が彼の免許証を探しているはずがないのだと、説明されなくてもわかってる。けど、事態はもう一段階進んでた。
「もういいんだ」
 そう言う彼がいつもどおりに笑っているから、私はまだ状況を把握しきれていなかった。
「デートは中止?残念ね。次のドライブの時は気をつけなよ」
 私がそう言ってもまだ、彼は笑ってる。だから、彼が私の言葉に頷いてくるのだと思っていた。
「次はないよ」
 穏やかな笑みをたたえたままの彼が、淡々と、その言葉を口にした。
「別れた」
 ふられた、とは言わなかった。そのことが少しだけ心に引っかかる。
 でも次の瞬間、急に開いた運転席のドアに驚いて飛び退いて、心に引っかかったことなんかあっさりどこかへ行ってしまった。
 運転席から降りて、彼は助手席側に回る。ドアを引いて、その側に立って、私を見てる。
「乗って」
「え?」
「いーから、乗って」
 彼の顔は笑っているけど、冗談を言っている時の表情じゃないことはわかる。
「俺、一人身になって寂しくて落ち込んでるとこなんだ。ドライブ、付き合ってよ」
 車を挟んで向かい合う二人を傍から見たら、結構間抜けかもしれない。そんなどうでもいいことが頭に浮かぶ。
 多分今私は混乱してるんだ。携帯も何も持ってないどころか、服装だって家用の、普段着の中でもさえないぱっとしない部類のものだ。
「乗って」
 彼がもう一度言う。穏やかな口調で私を急かす。
 でも、私の手には、箒。
 私の視線を追って、彼が今更気づいたみたいに箒に目をやった。
「後部座席にでも放り込んじゃって」
 今は、まっすぐ私を見てる。
「早く、助手席に乗って」
 とても急かされていることだけがよくわかる。
 わかってしまうともう、体が勝手に動いてた。
 免許証をポケットにしまい、助手席のドアを閉め、彼が運転席に着く。
 ハンドルを握り締め、正面を見据え、ふうっと大きく息を吐いた彼。もう、その表情に笑みは残っていない。見慣れない、真剣な眼差し。
「そうだったんだよな」
 呟いて彼は車を発進させる。
 運転しているのだから当然だけど、彼は私を見ていない。けど、私が彼をじっと見ていることには気づいているだろう。言葉の意味がわからず、続く言葉を待っていることも。
「助手席に乗せたかったのはもうずっと、おまえだけだったんだなあ。今頃気づいたよ」
 しみじみと言う彼は、その言葉が私にどれだけ衝撃を与えたかなど、思いもよらないだろう。
「この馬鹿って、言わないの?」
 口元に戻った笑み。次は彼が私の言葉を待っている。
 私も今頃気づいたよ。そう言おうとして結局は、いつもの通りの言葉を口に出す。
 彼は、穏やかに笑ってそれを聞き、抗議のつもりなのかそうでないのか、アクセルを踏み込んで私をシートに押し付けて前を向かせた。
 
 あんたを好きだったなんて、今頃気づいたよ。なんて、ドライブが終わっても言えそうにない気がしている。
 そこまで言ってしまうには、今後彼が引き起こすであろう様々なトラブルを、ずっと隣で見届ける覚悟が必要だと思った。
 例えば今日これから、またガス欠で車を停めてしまっても、そんなことなら大したことないわと受け流せるだけの余裕とか。

 でもそれは、とても簡単に思えた。

(end)













旧作サルベージ。
家人が失くし物ネタその2。
免許証を持たないで運転することは、免許不携帯というとのご指摘をいただき、免許を持たぬ私はひとつ賢くなりました。
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