躊躇う --- daily memo log (06/05/19) 躊躇う 輪を描く。指先で、透明な丸いグラスの縁に。 グラスの中身を飲むのを躊躇っているように見える仕草。 「あれ、まだ飲んでへんかったん?」 声をかけると、ぎくっと肩を揺らした。それで自分の推測が正しいことを知った。 「んー……何か、踏ん切りがつかへんのですよ」 大きな背中を少しだけ丸めてグラスの中の液体を眺めてる、私よりかなり大柄で顔立ちも年上に見える、後輩の男の子。姿勢もだけど、口調もどことなく可愛らしい。 バイト先の後輩なんだけど、シフトが違えばなかなか顔も合わせない。今週はたまたま同じ時間に入ってて、世間話の延長線上から逸脱しない程度の会話を何度かした。 今日の昼過ぎのも、その類のものだった。 「そう言えば僕、今日誕生日なんですよね。誕生日やのに、バイトしてるってのも淋しい話ですけど」 「へえ、いくつになったん?」 「二十歳です」 「おお、じゃあ今日から大人やねえ」 「そうですね」 「大手を振ってお酒飲めるよねえ」 「……そうですかね」 ほんの少しの間に引っ掛かりを覚える。何事もなかったように流すこともできる程度のものだから、次の話題に移ればよかったのかもしれない。でも、自分の指して僕という話し方をする後輩の、大きな図体してるのに何だか少し困っているような、どことなく可愛らしいような雰囲気が、私は何となく気に入っていた。それでその、ほんの少しの間に指を引っ掛けて覗いてみようと思った。 「お酒、飲まへんの? 嫌いなん?」 何か、些細でもつまらなくても理由があるだろう。後輩がほんの少しだけ口ごもったその一瞬を作った理由が。 酒が嫌いだとか、酔っ払うのが嫌だとか、アルコールを受け付けない体質なんだとか。……そう思うに至った何かがあって、それは多分秘密というほどの重いものでもなくて、訊ねられたら世間話のついでに話してしまえるくらいのものだろう、と。 「嫌いも何も、飲んだことないですから」 後輩の返答は、予想外だった。 「え、一口もないの?」 「ないですよ。だって『お酒は二十歳になってから』でしょ」 「飲まされたりとか、なかったん? 合コンとかで」 「そんなん出たことないです」 私が驚いて訊ねることに、後輩はすらすら答えを返してくる。その表情が少し和らいでいるのは、私の反応が面白かったんじゃないかと思う。多分、ほんのちょっとだけ。 「そんなに驚くことかなあ」 不思議そうに首を傾げながら、ふっと笑みをこぼす。私より年上に見えそうだけど確かに年下の後輩が、年下らしく見える。 それが気に入って、こう提案した。 「じゃあさ、今日、飲みに行こか」 「え?」 「誕生日祝いにおごったるから、初めてのお酒、飲んでみたら?」 面白がるところがなかったわけじゃなかったんだけど、初めてお酒を飲んだ後輩がどんな風になるのか気になるだけでもなく、彼の初めての場面に同席したかった。 他の誰かじゃなくて、私が。 といっても私もバイトだからそんなにお金持ちでもない。結果、よくあるお手ごろ価格のチェーン展開してる居酒屋で、こうして気取らない料理を食べつつ飲んでいる。 といっても、後輩はまだグラスに口をつける決心がつかないようだった。私が少し席を外している間もそれは変わらなかったらしく、どうしようかな、と言葉を口にする代わりに、グラスの縁を指でなぞってくるくる輪を描いている。 踏ん切りがつかないと言われたけど、おごりだから遠慮を示しているとかいうわけでなく、料理の方は減っている。飲まない分、食べないと間が持たないんだろうし、たくさん食べそうな体格をしているからそれは別に意外じゃなかった。 「何? 一口で酔っ払うから家族から固く止められとったとかそういうのん?」 子どもの頃にウィスキーボンボンを一口食べて酔っ払った経験でもあったとか。理由を想像してみるにしても、そんなにあれこれ思い浮かばない。飲んだことがない、そう本人が言い切る以上、味が嫌いとかいうこともないだろう。知らない味を嫌うことはできないはず。 案外、飲んだことはあるんだけど、即酔っ払って記憶が飛んで、本人だけは覚えてない、とかいうことだったりするのかな。それこそ家族から止められてか、無意識の内に強く苦手意識を刷り込むような体験だったりした、とか。 でも、そういう物理的なことではなかったらしい。 「飲むとどうなるかを考えると、何か、よし、飲むぞーて気になれへんのです」 あくまでも、心情的なこと。 「一口で酔っ払うかもしれんでしょ。そしたらえらい醜態晒す可能性かてある。飲んでみんとわからんから、いずれは飲んでみなあかんのでしょうけど……今ここで僕が何かやらかしたら、迷惑かけるでしょ」 ちらりとこちらを見て、困ったように笑った。 つまりは、私にというか、酒を口にするときに同席した誰かに何か迷惑をかけるのではないかと思って、決心がつかないのだ、ということ。 「そんな深く考えんと、軽く一口飲んでみたらいいやん」 「せやけど」 気軽に勧めながら、彼にとっては私に迷惑をかけることが嫌なのか、自分の醜態を私に限らず誰かに見せることが嫌なのかを考えてみる。 別にどっちだっていいはずなのに、後者だったら何かがっかりだ、と思いながら、だったら余計に飲ませてやろうという気持ちになる。 「一口で酔いつぶれたら、家まで背負ってったるわ」 「……僕、重たいですよ」 「私、見た目より力持ちやから」 腕を構えて力こぶをつくる仕草をしてみせると、ようやくグラスの縁に円を描くのをやめた。私が滑稽に見えたのかどうか、かすかな笑みを浮かべてる。 「じゃあ、ご馳走になります」 律儀にもう一度そう言ったときにはもう笑みはなく、意を決してっていうか意気込みたっぷりに、グラスを口元へ運んだ。 こくっと喉を鳴らして一口飲み込むと、グラスを置いて、自分の反応を確かめるように両頬に手を添えたりさすったりし始める。 しばらくそんな風にした後で、後輩は心底不思議そうに、 「……あれっ?」 と声を上げた。 何が意外だったのか、それともこの態度が既に酔い始めた証拠なのか、反応を見守る私には構わず、何やら考え込んでいるようだ。 ここは敢えて何か言って彼の素直な反応を邪魔するよりも、じっくり観察するべきだと思って、私は黙って後輩を眺め続ける。 ふと、後輩の表情が柔らかい笑顔になった。それまでのどこかぎこちない、困ったように見える笑みとは違って、ほっとした、落ち着いた、そういう感じの。バイト中にも、今日この席についてからも、一度も浮かべていない表情。 もしかすると、見るのはこれがはじめてかもしれない表情。 「美味しい」 言って、グラスを持ち上げると再度口をつけた。今度は一口でなく、ごくごくと飲み込んでいる。 グラスの中身を半分ほどにまで減らしたところで、グラスを置いて手を離すと、ふーっと息を吐いた。次はその手に箸を持ち、小鉢に残っていた料理を平らげる。 無言のまま、数分。 「大丈夫みたいですね」 アルコールによって頬が赤く染まることもなく、青ざめることもなく、平然と料理を食べグラスを空け、後輩は微笑んだ。 一口で酔った挙句の行動、というわけではなかったらしい。態度も落ち着いていて、極度にアルコールに対しての耐性を欠いているということもないようだ。少なくとも、ビール一杯で酔うほどじゃない。 「急に暑く感じたりとかしてない? 頭がふらつくとか」 「うん、そういうの、全然ないです」 すっきりした顔で答えるのを聞いて、根拠があるわけではないけど、酔いの感覚がわからなくて、実は酔っているのに平気に見えているとかいうんじゃなさそうだ、と判断して、私もグラスを手にした。 なんだ。 本当にアルコールに弱くて、一口でばたっと倒れるとかされても困るから、何でもなかったのは悪いことじゃない。でも、そう面白い反応が見れたわけでもなくて、少し拍子抜けしたかも。 まあ、こんなもんか。 いつもより少しにこやかな後輩を見ているのは、確かに悪いことじゃない。 がっかり感はそれほどでもなくて、そのことにもっと驚くべきだったのかもしれない。にこにこと酒を飲み、箸を進める後輩を眺める自分の口元に、後輩にも負けない笑みが漂っていることにも、早く気づくべきだったのかも。 これは、と、自分の感情を冷静沈着に分析するには少し、飲みすぎているのかもしれない。 それでも考えてみようか、後輩を楽しく眺めているだけにしようか、どうしようかな、と考えを起こしたときだった。 「いやー、よかった、先輩の前でみっともないとこ見せんですんで」 にこやかな表情のまま、後輩が言った。 「醜態晒して嫌われんですんで、一緒に飲めて、ほんまよかった。これで諦めんですむ」 すらすらと言葉を紡いだ後輩の表情が曇ったのは、言い終えて、あ、という形に口を空けて、口元を手で覆った後だ。 そのままの姿勢で数秒硬直して、それからがっくりと肩を落とす。それまでのにこやかさは、さっと消えている。 やっぱり自分は少し酔っているのかもしれない。顔が少し火照ってきた感じがする。 「諦めんですむて、何を?」 酔っているのかも、と思う割には自分の声が妙にくっきりとしている。二人の間に落ちたつぶやきが、今も消えずに残っていると錯覚しそうなほど、耳についた。 見つめると、後輩はふいっと向こうを向いてしまい、目を逸らされた。 「……あー」 大きな手が覆った口元は見えない。覆われた口から漏れ出た声はもごもごと不明瞭で、彼が何かを言いたいのだとしたら、続きを口にしてくれるのを待たなきゃいけない。 「すいません、やっぱり、酔っぱらったみたいで」 相変わらずもごもごとつぶやかれた言葉を何とか聞き取る。消え入りそうな声だから、苦労させられた。 「酔うと、口が軽くなるんですね」 耳まで赤らめて、決まり悪そうに話す後輩は、かわいらしい印象で、悪くない。でも、今の説明はちょっと、よくない。 「酔っぱらって心にもないことを、口滑らしたってこと?」 私は酔っているらしく、普段なら躊躇して結局は口には出さずにおくだろうことを、きっぱりと口に出していた。 酔っていなければ、彼の言葉を残念に思ったとしても、追求なんかしない。やっぱり、少し酔ってしまっている。 後輩は、空になってしまったグラスに手をのばした。 指先で、グラスの縁に円を描く。くるくると指を動かして、円を何周か描き続ける。 「それ、今ここで言わんと駄目ですか」 やっとそう口にした後輩の顔は、グラスの中身を一口飲んでみようかどうしようか躊躇っていたときよりももっと、困った色に満ちている。 「ここで言うんは、嫌なん?」 白状するのがそんなに嫌なのか、と思うと、私にはますますよくない。 私に好意を持っているようなことをするっと言って、それを全部アルコールのせいにしちゃうつもりなのか、と思うと、むっとしてしまう。 ところが、後輩の言い訳は、私には予想のつかない内容だった。 「今僕が正直に言うても、酔った勢いやと思うでしょ?」 予想外のこの言葉は、悪くない。むしろ、気に入った。 問題は、 「今正直に話してもろても、酔うてる私が聞き違えたんちゃうかなと思うやろなあ」 ということであって。 「……それも、困るなあ」 私には、困るといいながらにっこりするあんたのほうが困ります。 少し酔ったくらいではさすがにそんなことは口にできない。それじゃ、躊躇って結局何にも言ってない後輩よりも白状することになる。 何か言おうと思うんだけど、口を開きかけては言葉を飲み込む。二人してしばらくそんな時間を過ごした。 ……次の料理や飲み物を頼むのも、店を出て帰路につくのも、躊躇ってしまって。 (end) 旧作サルベージ。 自分の誕生日に書いた。自分で自分を率先して祝う恥ずかしいひとなのは今も一緒です。 関西弁会話は書くのがとにかく楽しいです。 index |