□ そしていつものように
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そしていつものように

「一年、経ちましたなあ」
 その声は、嬉しそうというよりも面白おかしくからかうような響きを持っていた。
 目の前にいる、身長もほぼ同じ、体重も、嬉しくないことにこれまたほぼ同じ、それなのに私よりがっちりした体つきの男子生徒。
 その体つきは今、夏服の制服に覆い隠されている。初夏というより夏本番といってしまいたい暑い教室の中にいて、他の生徒のようにカッターシャツの前ボタンをだらしなく開けてはいないし、白のカッターシャツの下に色鮮やかなTシャツが透けて見えたりもしていない。
「なあ、聞いてるかあ?」
 耳元までではないが、顔をそれなりに私に寄せて訊ねる。その仕草は漫画やドラマなんかでありがちな、現実に実行に移したらややわざとらしさが出てしまうような、そんなもの。
「……ちゃんと聞いてます」
 答えながら考える。恐らく今二人は同じ事を思い出しているはずなのに、彼は笑っていて、私は顔をしかめている。
 この一年、あまり思い出さずにいたかったことではあったけれど、去年に引き続き今年も同じクラスになってしまって、結局毎日顔を合わせていて、常に頭の中から消えてなくなることはなかった、その出来事。
「変わらんままでしたなあ」
 わざとゆったり喋っているのかしみじみ思い出している表れなのか。彼の話し方に深刻ぶったところは、欠片もない。言葉遣いから判断するなら、ふざけている。
 何が?と訊ねるまでもないことはわかっている。それこそがグラウンドゼロ。
 私は顔をしかめてそのことを思うが、彼は、笑うことができるのだ。
「何も同じペースで伸びるこたあないやろに、なあ」
 笑ったままで彼が言うのを、笑えないままで私は聞いている。
 彼、嶋野秀俊の春の身体測定による身長の値は百七十一・三センチメートル。
 私、秋野志穂の春の身体測定による身長の値は百七十一・五センチメートル。
 その差、実に二ミリ。
 一年前から変わらない、その差二ミリ。
「秋野は運動部でもないのに、よう背え伸びよるなあ。何かコツあるんか?」
 放課後の教室でそう訊ねてきたのが初めての会話であり、それが丁度一年前。その時は今より六センチ程小さかった。
「さあ、別に何もしてへんけど」
 このご時世、女子高生の身長が百六十五センチを越えたところで別に、そうそう珍しいもんでもなければ、よく背が伸びるんですねと声をかける材料にもならないはずだ。
 確かに、そこから更に一年前、私の身長は百六十センチより小さかったので、背が伸びているのは事実だが、よくという言葉をつけるほどに成長率がいいとは、私は思わない。でも、嶋野は思ったのだ。
 それからしばらくはお互い黙ったまま。少し経ってから、気づいて驚いたこと。その時初めて会話をしたはずの嶋野が私に『よく背が伸びる』と言うということは、それまでの私の身長の推移を知っていたということ。
「追い抜きたいなあ」
 驚きの余韻の中、嶋野の声が耳に届く。しかし、その意味は最初、私の脳には届き損ねた。
「俺、一応バスケ部でバリバリ運動してるやん?身長も伸び盛りのお年頃なわけやし。せやし」
 そう言い置いて、それからまた繰り返した。「追い抜きたいなあ」と。
「どうぞ、遠慮なく」
 何故敢えて私にそんなことを言ってくるのかわからず、別にどうでもいいしとばかりに私は答えたのだ。内心そこまでは思っていなかったけれど、彼が私より背が高くなることに何の不満も不都合もないのは事実だったから。
「うん、じゃあ、俺のほうが背えでかなったらさあ」
 嶋野がそこで言葉を切ってごくりと息を飲むのを、ぼんやりと眺める。頭の中で疑問が揺れている。何故彼は今私にこんなことを言い出すのだろうかと。
 その先を聞くべきなのか、耳を塞いでしまうべきではないのか。そんな気がしながら。
「俺と付き合ってくれるかなあ」
 のんびりとした調子で話すのが、いつもどおりの嶋野なのか今だけのことなのか。そんなこともわからないのに、大体口をきくのもこれが初めてだというのに、何でこんな話題になっているのか。
 だからこそ、私の言葉は次のようなものになった。
「付き合うって、どっか一緒に行くのについて来いっていう意味やんな?」
 わざわざ言葉にして確かめたら、なに勘違いしてんの自分、アホちゃうん?それか自意識過剰なんとちゃう?とでも笑われそうだと思いながらも、訊かずにはいられなくて。
 嶋野は、ほんの少しだけ面白そうに目を細めた。表情は、最初から浮かべている笑顔から余り変わらないままで。
「ちゃうて。秋野、ちゃんと意味わかってるからそないな確認すんねやろ?」
 嶋野の言葉が、考えていることとは逆のことを伝えてくる。
 とても唐突な話だった。私は嶋野のことは何も知らない。二年になって初めて同じクラスになって二ヶ月余り、少し賑やかなところのある、明るくてどこか運動系の部活をやっている、そんな程度の知識しかなかった上に、それまで会話したこともなかったのだから、何も知らないのと同じだ。
 他に誰もいない教室で、つい先程初めて口をきいた男子生徒が言った言葉は、とんでもない衝撃を私にもたらした。
「俺、頑張って背え伸ばして、秋野よかでかなったら、ちゃんと言うから。あと二ミリやな、よし」
 そう言って、ひらひらと手を振って教室を出て行く。その指が長く、手は大きかったことを、今でも思い出せる。
 思い出せる以上は、夢じゃないはずだ。
 しかし次の日以降、また嶋野と私が会話することはなかった。彼は私に話しかけることはなかったし、私から彼に話しかけるには何の理由もなかった。
 そのまま時間が経つに連れて、あの出来事は夢ではないのかと思えてくるようになり、それなのに嶋野を変に意識するようになってしまい、それでもやっぱり嶋野と私はまるで何もなかったように一言も言葉を交わすことがなくて……結果、何だか妙に気まずいような、後味が悪いとでもいうのか、そんな変な感情を抱くようになってしまったのだった。
 付き合ってとか何とか、言い出したのは嶋野であって私ではないのに、どうして私がこんな気持ちにならなきゃいけないんだろう。
 頭の中に常に、例え片隅にでも、ずっと居座っていた出来事。夢にも思われる、でも確かに現実にあった出来事。私に妙な感情を引き起こさせる出来事。
 だから思い出すと顔をしかめてしまう出来事。
 それなのに彼は笑っていられる。
「やっぱし、何かいい手があるんやないか?」
 笑って、そんなことを訊いてくる。
「どないしたら伸びるんかなあ。俺、もっとでかならんと、レギュラー取るんとか不利なんやけどなあ……でも今から伸びたかてもう大会には間に合わんか」
 笑って、重要なのは身長のことだけなんだと言わんばかりの話題ばかり口にする。
 あれから一年経ったのに。
 一年の間ずっと、忘れられないまま今日まで来たのに。
 私と彼の身長差は変わらないまま二ミリ。
「まあ、しゃあないなあ。変な意地なんやけどなあ、まあ、コダワリやからな。うん」
 一人で言って一人で納得している嶋野の口元にはやはり笑みがある。
「俺の方がでかなったら、言うから」
 かたん、と椅子を鳴らして、嶋野が席を立つ。笑ったままで、あの長い指を、大きな手を、ひらひらと振る。
 ここからまた一年?
 来年の今頃までまた、一言も話さないまま?
 教室を出ようと歩いていく背中は、私より大きく見えるのに。
 でも振り返らないで歩いていく。
 そのことが、ひどく重く、私の心に落ちて、音を立て、きしませた。
 たかが二ミリが私と彼をこの先も隔てるのだと思うことが、どうしてこんなにも私を動揺させるのか、その意味は考えたくない。
 彼が教室を出て、そして。
 いつものように、言葉も交わさない私達に戻る。
 こんな毎日はいつまで続くんだろう。
 堪らないと思った。
 夢かもしれないと思うのも、夢でなかったことを確かめたいと思うのも、そんなこともうどうだっていいからとにかく嶋野と何か話したいとか思うのも、もう。
 次の瞬間、教室を出ていた。
 足は自然と走り出している。廊下を駆け抜け、階段を数段まとめて飛び降りる。視界に彼が入らないかと懸命に探しながら。
 いつものように。
 そう。
 この一年、忘れたいような気持ちで忘れられもせずに私は。
 ずっと嶋野を探し、目で追っていたのだから。

( end )

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(first 03/06/22 , update 09/03/02)