standing


 その男はひたすら自転車を磨いている。
 背後に立つ私の存在なんか気にもかけずに。
 
 ぼとぼと、という表現が本当に的確な程の、滴り落ちる汗の量。時折腕で乱雑に拭って、それでも一応は汚れた手先で顔に触れぬよう気をつけていたのだろうが、頬には既にいくつかの黒い筋が描かれていた。元々黒い色をした布地のシャツは既に灰色の汚れがついているし、胡座をかく体勢で地面に座り込んでいるお陰かグレーのズボンも既に泥まみれ。
 要するに、目の前の男は、汚らしい。
 そして、汚らしい男に磨かれる自転車も、磨かれ始めてどれほどの時間が経過したのかわからないことを考慮しても、とても汚らしい。
 男が汚れを落とそうと躍起になれば、自転車が綺麗になっていくのに反比例して男がどんどん汚くなっていく。そう思って眺める数分の間、どちらも綺麗になる様子はなく、ただひたすらに汚れていくばかりのように見えた。
 あちこち錆の浮いた自転車は、すっきりと無駄のない形態で、所謂ママチャリとは異なるのだと一目でわかる。新品で購入するならなかなかのお値段だろうし、機能が、その速度が売りに違いない。が、今はまともに走るのかも怪しい具合だ。

「そんなの磨いてどうするのよ。乗るの?」

 背後に立つ私の存在にはさすがに気づいていると思って声をかけたのに、男はびくっと体を揺らして、それから急ぐ素振りもなくこちらを振り向いた。その表情は、何だ、おまえかよ、と言っている。だから私も、そうよ、私よ、と言うつもりになって表情を作ってみせた。

「会社の倉庫に眠ってたんでな、貰ってきた。現物支給のボーナスみたいなもんだ」

 突き放すような、面倒で仕方がないって感じの話し方。この男の勤めている企業は自転車メーカーではないと知っているだけに、何故自転車が倉庫に眠っていたのか、何故それを貰ってきたのか、訊ねたい気持ちにはなる。けれど、最初の疑問にさえまともな答えをくれない男にそれを問い質したところで無駄だと思い直した。
 いつもそうなのだから。
 黙って見ていると、また自転車に向き直って自転車磨きを再開した。錆取り剤を吹き付けては布切れで磨く。ただそれだけを無言で続ける。
 私は、すぐに飽きてしまいそうになるそれを眺めるという行為を止めないでいる。
 止められないでいる。
 もうずっと長い間。

 目の前にいる男は、隣の家の自慢の一人息子で、同級生で、某一流企業のエリートサラリーマンだ。いかにも頭が良さそうな、というか、勉強が出来そうで運動が苦手そうな風貌に、学生の頃は眼鏡をかけていた。事実成績は良く、運動も、得意という程ではないが人並みにこなしていた。何気に要領はいい。
 私とは違う。
 大学までどうにか同じところに通ってきたけれども、私は頭が良いなんて言える程の成績なんか修めたことはないし、一流だったり有名だったりする企業に就職なんかしていない。更に言えば、私は分厚いレンズの眼鏡を今も手放せない。
 似ている、と。
 言われる機会はそれなりにあった。二人とも眼鏡をかけていたせいなのか、真面目そうに見えるというただそれだけのことで。
 でも私は、一度だって自分とこの男が似ているなんて思ったことはない。そんな風に思えるはずもない。
 こんなぼろぼろの自転車なんかわざわざ磨いて乗らなくても、その気になれば高級外車の一台も買ってしまえるだけの給料を貰っているはずなのに。そんな疑問を持っても当然の環境にいると知っている相手と、自分が似ているはずなどないのだ。
 しかも、このタイミングでは、磨いてでもこの自転車が必要なのは、どちらかと言うなら私の方だ。とはいえ、別にすぐに必要になるということもない。明日からは家を一歩も出ない暮らしも夢じゃない今の状況からすれば。
 残暑は厳しい。日暮れだというのに一向に涼しさを感じない。でも確かに今の私は寒さを感じている。
 懐に。
 明日から来なくていいよ、と上司が私の肩を叩き、会社の倒産を告げた今日は、給料日前日。
 退職金どころか、今月の給料も出ない。

 ひたすら自転車を磨く手が止まり、そのまま動き出す気配のないことに気づいたのは、言葉を交わしてから何分経過した後だろうか。やや肩を落として、動かないままの背中。こんなに広かっただろうかと思わせる、ひ弱な印象など微塵も湧かない背中。デスクワークばかりの毎日を送っている男のものとは思えない。

「で、おまえはいつまでそこに突っ立って見てるつもりなんだ。とっとと家に入れ」

 私の現状など知る由もないこの男が、私にほんの少しでも優しさを感じ取れるような言葉をかけるはずもない。きっと、知っていたとしてもだ。隣に住んでいようと同い年だろうと、だから何なのだ。お互いの家がどれだけ親しく付き合っていようと、私個人がこの男個人と親しくなるのとはまた話が別。
 よく「似ている」と言われた。実際にはまるで違う。意見はすぐに対立して言い合いになる。少しも似てなんかいない。同じものなんか何もない。今となっては、差ばかりが目に付く。

「答えを聞いたら入るわよ。それに、乗るの?」

 可愛げなんかない。人並み程度の見た目も、愛想もなくて、要領も悪くて取り得もない。だけど、ひとつくらいは欲しいものをもぎ取れる。
 今は、乗るつもりでこの自転車を磨いているのかどうかという疑問への答え。
 意地になってそれだけは押し通すのだと決めて、ただ、待つ。

「運動不足だからな。チャリ通でもすっかなと」

 しばらくの間を置いて、本当に面倒で面倒で堪らないけれど答えれば追い払えるのだから、という雰囲気をありありと漂わせて答えを寄越された。

「電車で一時間以上かかるとこに自転車で通勤?馬鹿じゃないの?」

 いつもならこういうはずだ。いつもの私なら。
 そんなだから余計に好かれないのだとわかっていても叩いてしまう憎まれ口。
 でも、この時私の口をついて出たのは、憎まれ口とは言えない言葉だった。

「体力つきそう。涼しくなってきたし、それもいいわね」

 それだけで会話は終わる。いつもとは違う、穏やかな流れで。
 ささやかな疑問の答えを聞けて満足することなんて、今までの私にはないことだった。満足したと自分を騙して、嫌々引き下がっていただけのこと。
 本当に欲しいものを手に入れるだけの能力は自分にはない。仕事を失った今、そのことをつくづくと思い知らされて、投げやりな気持ちになった。
 自分の家の玄関の方に体の向きを変える。一歩踏み出すと、アスファルトにぶつかった靴の踵がかつんと鳴った。好きになれなかった踵の高い靴も、明日からはもう履かなくていい。息苦しいスーツもストッキングも要らない。
 羨んで、妬んで、成り代わりたくて、ああ、いいよねえ、通える会社があるなら自転車ででも行きたいよ、無理だけどね、このご時世、大した経験も技術もなくて次の仕事見つかるかな、結婚しちゃえばいいなんて言える相手もいないってのにね、ああ、本当に、明日からどうしようか。

「乗りたいのか?」

 いつもなら続かない会話が、今日は続く。
 声をかけるのはいつもこちらからだった。声をかけても滅多に答えは返ってこない。それが今、珍しく問いかけられている。重要でも何でもないだろう事柄なのに。
 いつもと違うことが、まだ起きるのだろうか。しかも、良くないことが。
 いつもなら続かない会話だから、流れが読めないけれど、いつもなら多分、そんなことあるわけないでしょう、とか答えるんだろう、私は。
 でも。

「乗せてくれる?」

 急に無職になった衝撃の大きさからなのか、私らしくない言葉が出てしまって、思わず振り返ってしまった。
 本当に私らしくない。その証拠に、こちらに背中を向けているはずの男が体勢を変えて私を見ていた。

「じゃあ、試運転」

 言いながら立ち上がって、汚れた手がズボンをはたいてから自転車のハンドルを握る。またこちらに背を向けて、スタンドを軽く蹴って跳ね上げた。
 後ろのタイヤの上に、荷台が取り付けてある。さっきまでは男の背中で隠れていた部分だ。ぴかぴかの銀色。どうやらこれだけは新品らしい。

「早く持てよ」

 首だけを回して私を見て言う。
 ハンドルを引き渡そうとする手つき。

「……いいの?」

 汗だくになってまで磨いた自転車。それに一番最初に乗る権利を、そう易々と私に譲ったりする男だったろうか、目の前の人物は。
 いぶかしんで見上げると、私の意図を読んだように顔をしかめて、やれやれと首を振ってみせる。芝居がかった動作さえ様になるのだから、嫌になる。

「おまえが漕いで、俺が後ろに乗るんだよ」

 冗談ではない。冗談なんか私には言わないから。だからって、本気で私に漕がせて自分は後ろに、と考えているわけでもないってことはわかる。
 この言葉で引き下がっておけという、暗黙の了解のようなもの。もしくは、この言葉を引き金に怒りを爆発させてとっととこの場を去れ、という。
 私が黙ったままこの場を動かないことに男が疑問を持つのは当たり前だ。いつもの私なら、確実に喧嘩腰に強烈な一言を突きつけて即この場を離れるに決まっているのだから。

「……嘘だよ。怪我させられたらたまらん」

 いつもの反応がないことに焦れた様子もなく、ただ、表情に少しばかりの不快感を示している。不快感と言い切るのは的確なのかどうか、悩むような程度ではあるけれど。
 男の反応はいつもどおりだ。喧嘩腰でも強烈でもない言葉は、決して優しくはないから。
 違うのは私だけ。
 別に怪我したところで困らない。明日からは予定もないのだし。そう考えて元気を出そうというほどのこともないけれど少しは前向きに思考を向けてみようとする。でも、結局はうまくいかない。どこからも、力は湧き上がってこない。怒りとか苛立ちとかいう類の負の感情の力さえ、外に向けられるものは、何ひとつ。
 らしくないなとは思うけれど、仕事がないことがこんなにも気持ちを落ち込ませるものなのかと思い知る。
 いや、多分、仕事のことなんかきっかけに過ぎないんだろう。

「そういえば、こんな時間にもう帰ってるの? 一流企業って実は暇?」

 振り払うために無理矢理、いつもの自分が言いそうなことを口に出してみる。

「一流企業には夏期休暇ってもんがちゃんとあるんだよ。零細企業と一緒にすんな」

 言葉の裏にある、「おまえの会社とは違ってな」という響きに、いつもどおり深くえぐられて黙った。
 そう、零細企業だから、不況、乗り切れずに潰れてしまった。
 いつもなら強く訊ねたりしたかもしれない。私が夏期休暇を取っていないことを何でこの男が知っているのかと。仲のいい親同士の会話から漏れた情報なのかもしれないけれど、私に関心なんか示さない男がそれを覚えていることを反撃の材料にしただろう。
 それに、いつもなら怒鳴って平手打ちの一発も繰り出しそうなくらい、胸に痛い一言でもある。
 でも。
 深呼吸。
 空気を吐き出しながら、嘘だと言ってサドルに跨ろうとしている男の動作を思いっきり遮った。
 ハンドルを奪って、男を見上げる。

「いい。私が漕いで、あんたが後ろに乗る」
「意地でも乗る気かよ」
「そう。嫌ならひとりで一周してくるけど」

 男の鋭い視線がいつものように私を射抜いて焦がす。こういう、挑発的な言葉を吐くと、決まってこういう目で見られる。
 どこか、蔑まれているような気さえしてくる視線で。
 いつもと違うのは、その後ふっと視線が緩んだことだ。

「黙って後ろに乗せてもらってろ、馬鹿」

 緩んだのは視線だけ。口調は厳しいまま、ハンドルを奪い返される。
 この男が言うと、自分が本当に馬鹿なんだなあと思えてきて、つらい。今は、一層つらい。
 逆らうともっと痛い言葉が飛んでくる。いつもなら跳ね返す力もあるだろうに、今はこれ以上はないっていうくらい真に受けて傷ついてしまうとわかっているから、大人しく言うことを聞いて自転車の後輪の上に備え付けてある荷台に横向きに腰を下ろした。

「腰に手え回してろ」

 嫌々ながら、振り落とすのは本意ではないから仕方なく、そんな調子で命じられ、男を後ろから抱き締める格好になる。
 とても嫌そうな表情を張り付かせているだろう男の顔は今、見ることはできない。そのことが残念だ。
 Tシャツは湿った感触を伝えてくるし、何より汗くさい。そのことを嫌だとは思っていない。
 嫌だと思えればいいのに。
 長年隣の家に住んでいても、幼馴染と呼ぶのを躊躇ってしまうくらい私達は親しくない。
 嫌われているのだと思う。
 それなのにこっちは、嫌いになれない。
 いい加減に諦めが悪いなとわかってはいるのに、馬鹿にされて腹も立つし実際怒鳴りもするけど、それでも、嫌いにはなれない。
 嫌われているのが悔しいから、嫌いじゃないなんて絶対知られたくない。馬鹿にされるのは目に見えてる。他の何を馬鹿にされてもどうにかなる、でもこの気持ちを馬鹿にされたら。
 今日はもう腹も立たなくて怒鳴れもしない。弱ってる。そんなところに自分の思いまで否定されてしまったら。
 立ち直れない。

「馬鹿、絞め殺す気か。もっと手加減しろ」

 文句を言う声が、空気を伝ってじゃなく、背中に寄せた体を伝って聞こえてきた。そうしたら、いつもより少しだけ、優しく感じられたりした。気のせいなのかどうか、判断はつかない。
 少しだけ腕の力を緩めたら、自転車はぐんぐん速度を増していく。
 試運転だと言ったのに、河川敷の方角へ進んでいく。
 こんなに近い距離にいるのは、大人になってからは間違いなく初めてだった。
 最初で最後なんだろうとしか思えないこの時間を、少しは穏やかに過ごせるだろうか。

「夏休み、ほんとにないのか」

 かなりの速度でペダルを漕いでいるくせに、呼吸は乱れていない。
 こんな、世間話みたいなことを男が自分に訊ねているといういつもと違った状況より、男の呼吸がゆったりと規則正しいことのほうが気にかかる。

「この先ずーっと、夏休み」

 言うつもりのないことを告げてしまったのは、振動を伴って体に伝わる男の声が、自分にとって何とも心地よくて、刺々しい気持ちが薄れて、気が緩んでいたせいなんだろう。
 こんなことを、この男が本心から知りたいなんて思ってないって、ちゃんと理解しているのに。

「はあ?」

 何を馬鹿なことを言っているんだという意思が込められていることはよくわかる。
 振り向いて睨んだりしたいのだろう、一瞬頭を後方に向けようとして、運転が危なっかしくなるのに気づいたらしく慌てて前へ向き直った。

「なんじゃそりゃ」

 わからないので問い質すことにしたらしい。
 本当に知りたいと思っているのなら、私が隠す必要はない。どうせ、親経由で知れてしまうのだろうし。

「会社、潰れた」

 息を飲んだのがわかった。
 続く沈黙はやけに重くて、自転車が走るのにカラカラ鳴る音が必要以上に軽く聞こえる。
 いつもなら口論に発展しているような会話の内容で、何故か今、怒鳴りあった後もう二度と口をきかないと決めたような場面とはまるで違う沈黙が流れて、自転車の速度に追いつけずに置き去りにされていく。
 余計なことを訊いてしまったと後悔しているのか、男は黙ったまま自転車を漕ぐ。
 余計なことを訊きたくないのならこれ以上口を開かないほうがいいだろうと、私は黙る。

「じゃあ、職安行くのにこのチャリ貸してやろうか」

 いつもと違うことばかり起きるから、段々心配になってきた。
 会社が潰れた以上に悪いことがまだまだ続くっていうんなら、私は今すぐ自転車から飛び降りて逃げ出すべきかもしれない。
 それでも、触れていられることの幸福さを選び取ってしまうんだろう。

「じゃあ、借りようかな」

 自分の声が情けなく聞こえた。「じゃあ、借りてあげるわよ」くらいのことを言うんだろういつもの自分はどこに行ってしまったのか。
 自分の持ち物を貸してやるなんてことをこの男が私に言うなんていうあまりにも珍しいことが起きてるから、調子が狂うのか。
 私の調子が狂っているから、男が自分にほんの少し親切なのか。
 河の匂い。舗装されていない、河川敷に渡る緩い坂道の土埃。芝生。
 とにかく、こんな風に会話が続くのは、幼い頃以来じゃなかろうか。
 そんなことを考えていた時だった。

「やっぱ、チャリ、駄目」

 急に声に鋭さを取り戻した男が、きっぱりと言い切った。

「え? 何で、やっぱり私なんかには貸せないっての?」

 ちょっと元気が出て食ってかかってしまった。
 やっぱり、こうじゃないとおかしいんだろう、この男と私の会話は。

「そう、おまえには絶対に貸せない」

 鋭さを増しながら、男の口調が早まる。
 彼の言葉に、何かに躓いたように自転車がつんのめって、自転車が弾んだ。
 派手な音がした。すぐ側で、少し離れたところで。
 夕焼けの空が、綺麗。
 視界はオレンジ。なだらかなグラデーションで青く染まっていく、どこかぼやけた一面の空。
 背中には、芝生と土の感触。
 何が起きたのか、把握するのに数秒。衝撃、視界、それから。

「大丈夫か」

 上から覗き込んでくる男のその姿勢、土に汚れた頬。それが、距離の割にぼやけていて、眼鏡がずれてしまっていることに気づく。
 自転車は、派手に転んだらしい。

「……何か私に恨みでもあんの?」

 ずれた眼鏡を直しながら、訊いた。

「自転車貸せないとかいきなりこけてみたりとか」

 起き上がらないまま、空を見上げて。
 スーツ姿のいい年した女が河川敷にひっくり返ってる姿は、何とも情けないもんなんだろうけど、急いで起き上がろうという気分にはならなかった。
 衝撃の割にどこかを痛めたような感覚もなくて、眼鏡もずれただけでどこかに飛んでったりはしていない。
 もうこのスーツも着ない。今は脱げてどっかにいってしまったらしいパンプスも履かなくていい。
 会社が潰れたことのほうが、事は大きくて重い。
 例え男が私を見下ろして容赦ない口調で私に恨みがあるとか告げても、そのことに打ちのめされてる場合じゃないはずだし、会社が潰れたことよりよっぽど打ちのめされたりはしちゃいけないとも思う。

「ブレーキ壊れてるから、貸せない」

 いつもなら、おまえごときを恨むエネルギーが勿体無い、なんて言われてるかもしれない状況で、淡々と事実を告げられた。
 夕日を背にしている男の表情ははっきりとは見えない。でも、いつものように無愛想で、ひょっとしたらいつも以上に不機嫌そうなのかもしれない。

「危なくて乗せられん」

 手を差し出された。
 手を掴めば、掴み返されて、引っ張って起こしてくれる。そんなつもりがあるような、手の差し出し方。
 これは実際に起きていることなのか、自分の見ている都合のいい夢なのか。いつもとあまりにも違う男の態度に、困惑してしまう。
 差し出された手を取れずにじっと見ていたら。
 男は、いきなり硬直した。
 ぎくっと肩を揺らしてしばらく動きを止めた後、差し出されたままの手が、のろのろと伸ばされてくる。
 手が一旦止められて、思い出したようにぱっと引っ込められ、ごしごしと衣服で拭う仕草を何度か。それからまた、手が伸ばされてくる。
 ぴりっとした刺激が頬に。引き起こしたのは、男の指。

「やばっ」

 珍しく、男が慌てた声を上げた。
 幼い頃に聞いたことのあるのと同じ抑揚なのに、ぐっと低くなっている、声。

「何が!」

 言い返す自分の声には、昔とちっとも変わらない大人げなさが滲んでいる。それでもやっぱり、そろそろ若いという形容詞が使えなくなりそうだと感じる響きもある。
 男の手が引いた。触れる前に何度か拭われたはずの指先が濃い色で濡れているのを見て、自分で頬に触れてみた。再びぴりっとした痛みが走って、ぬるりとした液体の感触があった。
 擦り傷でもできたらしい。血の量は多くないし、痛みも大きくはないから、大した傷ではないはずだ。ちょっとばかり大きな傷だったとしても、もう明日からは通勤中や職場で人目を気にしなきゃなんて心配が要らない。
 男が慌てる理由がわからない。わからなくて男の顔をじっと見る。こんな時でなかったら、じっと見られていることに男は苛立ちを隠さずきつい言葉を投げつけてくるんだろう。

「……おまえの親とうちの親に知れたら傷物にしたとか煩く言われる」

 一流企業に勤めている、やり手のビジネスマンらしからぬ、何とも情けない調子の声だった。
 そりゃまあ、一応傷だけど、すぐに治ってしまうような小さな傷だろう。今日明日くらいは、しばらくは目立つかもしれないけど、生涯消えない深い傷ってこともないだろうに。
 もし、生涯消えない深い傷だったとしても、責任の所在を問うようなつもりはないのに。
 そこまで考えて、ああ、いつもなら責任取れとか何とか、怒鳴ってるんだろうなあ、と気づいた。
 責任。頭に浮かんだ単語と同じものを、男が紡ぐ。

「責任取って嫁にもらえとか言われそうだ」

 本人同士の仲がどれだけ悪くても、親同士はとても親しくて、そんな将来を歓迎するような空気も確かにあった。
 そんなことをあからさまに言われれば言われるほど、本人同士の反発はひどくなっていくばかりだったのに。
 私は嫌じゃなくても、この男にはそれが耐え難い苦痛だったんだろう。だから、親しく言葉を交わすことさえ、幼かった頃以来途絶えていた。私はそれが気に入らなくて、話し掛けては邪険に扱われて、それがまた気に入らないから言い返して。

「そんなの無視しなさいよ。あんたも嫌でしょう」

 嫌だ。嫌われているとわかっているのに、こっちは嫌がってないってことは、知られたくない。
 責任とか何とか、そんな理由で距離を縮めたくなんかない。ちゃんと、思われてならともかく。

「……嫌じゃないっつったらどうなんだ」

 何で急にそんなことを私に言ってみる気になったのか、それがまず疑問だった。
 私が弱っていることを察知して、優しい言葉のひとつもかけてみたくなったのだろうか。ほんの気紛れに。

「そんなことないでしょう」

 それに、そんなの嫌だ。
 今この場面でほんのちょっと優しくて、それからまたいつもどおり優しさの欠片もない対応に戻るくらいなら、最初から優しくないほうがまだいい。
 期待なんかしたくない。これまでずっと期待しないようにしてきたのに。

「嫌なのは俺じゃなくて、おまえだろう」

 だから何でそういうことを言うのか、今更。
 今更、じゃないんだろうか。
 この先変化していく、これは前触れなんだろうか。
 汚れた頬。土で汚れてないところは夕日を受けてオレンジ色に染まっている。オレンジに見えるのは夕日のせいだけじゃないのかもしれない。

「おまえがいつも嫌そうに話しかけたりしてくるから、こっちだって愛想良くなんかできねえっての」

 汚れと汗を手の甲で拭って、その手をまたTシャツで拭って、それからまた私に向かって差し出してきた。

「あーあ、ひでえ格好だな」

 私に向かってこの男が笑いかける日が来るとは、それが苦笑いなんだとわかっても、とても信じられない。目にしてもまだ信じられない。
 頬をつねってみた。擦りむいた辺りへ無意識に手をやってしまって、また頬にぴりっと痛みが。
 私のことを馬鹿にして笑ったんだろうけど、確かに今の私の格好はひどいもんだと思う。汗と油に汚れた男にしがみついて自転車に乗って、地面に投げ出されて、私だってどろどろになってる。
 でも、それなら。

「俺もな」

 そうだ、この男のほうがよっぽど汚れてて、ひどい格好だろう。
 今までなら。
 ここで私は、この男に言ってやるはずなのだ。あんたのほうがよっぽどひどい格好じゃないの、と。
 馬鹿にされるような、冷たい言葉を一方的に投げつけられているだけでは我慢できない。それは、認められたい気持ちの裏返しだったりしたのかもしれない。それでも結局は諦めて、やっぱりひとつだけ譲れないものがある。

「そうね。でも、スーツ着てかしこまってるより、そのほうがいいよ。私は好き」

 嫌われていても、優しくされなくても、それでも好き。

「あー、現物支給のボーナスなんか、ろくなもんじゃねえな」

 何でも器用にこなすはずの幼馴染が、差し出した手を引っ込めてぎくしゃくした動きで倒れてる自転車に歩み寄る。
 こっちに背を向けて、ぐしゃぐしゃっと髪をかいて乱して。
 慌てているのだ、嫌いな女に好きだとか言われて。

「ブレーキ、直さないとね」

 体を起こしながら、今また少し距離の開いた男に向かって言う。
 どれだけ好きになっても、僅かな隙間を隔てた隣の家に住んでいても、遠い存在。今まではそうだった。この先はどうなるんだろう。
 ずっと遠いままかもしれない。遠ざけられたままかも。
 時折油断して、今日みたいに少しだけ、近づけてくれたりすることがあるのかも。
 どうだろう。

「嫌だ、めんどくせえ」

 振り向いて宣言するのはもう、いつものしかめっ面。私に見せるいつもの、私を遠ざけたいように見える、顔。
 そのすぐ近くに脱げたパンプスが片方だけ転がっているのを確認しながら、足に残ったほうのパンプスを履き直す。

「けど、職安行くのに足が要るんだろう。しょうがねえから直してやる」

 カラカラと、押される自転車が音を立てる。
 のろのろと、この男にしてはやけに遅い歩調。

「帰るぞ。日が沈む前に直し終わらんと、明日使えんだろう」

 足音がついてこないことに気づいてまた速度を落として、でももう振り返ることなく、男が言う。

「その傷も消毒せんと、親が煩い」

 すっかりどろどろに汚れてる、汗を滴らせてる男が、自分の格好を気にするような言葉をひとつも口にしない。いつもなら、今までなら、きっと私を置いて大急ぎで帰ってしまったんだろう男が、ついに私が並び立って歩き出すのを待つように立ち止まってしまった。
 開いた距離は、ほんの二、三歩。
 この先この距離は縮まるのか広がるのか。
 もっと近くに行くことを許されることはあるのかどうか。
 まだわからないけれど、今までで一番、その存在を身近に感じている。

 その男は夕日に照らされながら立ち止まっている。
 背後に立つ私の存在を気にかけて、じっと待っている。

(end)













旧作サルベージ。
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