□ 過ぎる夏 番外編
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硯に向かいて

 硯で墨を擦る。その行為が何だか涼しい印象なのは何故だろう。
 小さい直方体の黒い固まりを手に、少量の水を注いだ硯に向かう。擦っていると、水は黒く濁りだし、独特の匂いがし始める。
 箱に押し込められて解かれずに随分経つ荷物の奥から学生の頃に使っていた習字道具を探し出すのは、なかなか手間だった。最後にそれを使ったのは、もう四年ぐらい前のことになる。箱には当時の学年と組が書かれている。
 昔から習字は苦手だった。上手くはらったり留めたりできない。何度書いても、書道の本に載ってるお手本の字と自分の字が似通ったものにならない。冬休みともなれば、書初めの宿題なんかが出るけれど、あれがまた、正月早々憂鬱になるほど嫌だった。
 硯の浅いところに墨を置く。小さくて重みも大して感じない墨が硯の縁に当たって、軽い金属音のような軽やかな音を立てる。この音が涼しさを思わせる要因なのだと思う。しかし、室内は蒸し暑い。エアコンは壊れているし。
 何で急に習字なんか、と考えて思い出す。何故か涼しい印象で頭に残っていた習字のイメージを追って、涼を求めて、硯で墨を擦ろうと思い至ったことを。
 習字用の半紙は薄くて軽い。文鎮で抑えても、緩い風でひらりと浮き上がる。だから扇風機は使えない。
 習字道具を探し出すのに体を動かしたことで、確実に暑くなった。扇風機を止めて窓も閉めて、室温は確実に上昇しているはずだ。
 苦手だったのは、変に肩の力が入っていたせいかもしれない。日常の習慣以外の行為だから当然不慣れだけれど、書き損じたら紙は無駄になる。ここまで綺麗に書いてきたのに、最後の一筆で失敗したらまた最初から書かなきゃならない。そんな緊張感の中で失敗を恐れる気持ちが抜けないまま書いていたし、授業時間が終わるまでに一枚提出用に仕上げる必要もあったから、急いてもいた。そういう感じが嫌だったんだろう。
 今は何の制約もない。
 別に失敗してもいいし。そう思って、自分の名前を、紙の大きさと文字の大きさの対比も何にも考えずにさらっと書いてみた。
 久し振りに筆を持ったのに思ったよりまともな字が書けて、あの頃は苦労して何枚も書いてみてちっとも思い通りに仕上がらなかった。
 習字道具の箱に畳んでしまわれていた、昔書いた習字の半紙。
「下手な字やなあ」
 眺めて思わず口にしてしまう言葉。
 自分で言っておいて苦笑いしながら、名前を書く用の細い筆を持って、思いついた文章を半紙の空いたところに書いてみた。
 まあ、悪くはなさそうだ。
 確か、買って置いてあったはずだ、と、居間のテーブルの上を確認する。既に残りは数枚程度。それを送って送られて、という習慣が自分にはないので使うこともなかったけれど、使ってもいいと言われている。いつもは、雑誌か何かの懸賞に応募するのに使うのだ。
 数枚を持って硯の前に戻る。失敗も何度かは可能だ。それでも、一度だけ深呼吸してみた。
「付き合ってる奴が居てへんのも知ってる。俺と付き合うてや」
 そう言ったら、一瞬笑おうとして、そのまま表情を強張らせて、黙ったまま俺を見て、それから走ってその場から離れて行った。その、相手のことを思ったら、とても軽い気持ちでは筆を走らせることはできそうになかった。
 逃げるみたいにして実家に戻った彼女に連絡をつけるには、携帯電話にかけてもいいし、メールだって送れるし、何より、その実家の電話番号だって知ってる。
 でも何故か、そうできない。
 部屋が暑いから、何にもやる気になれない。頭がボーっとして、ちょっとおかしくなってる。
 だから暑中見舞いなんか出してみる気になったんだろう。
 そう考えて、それが嘘だと自分でわかってる。
 涼しくなりたいからだなんて、大嘘だ。
 最初はそうだったかもしれないけど、でも、今はもう違う。
 何にもやる気になれないのは、何をしても彼女を思い出すからだ。
 思いを伝えてしまった今はもう、何の制約もない。
 直接会って話がしたい。
 本当は、話せなくてもいい。
 また深呼吸して、ありきたりの暑中見舞いの一文にもう一文付け足した。
 『花火の日に、そっちへ行きます。』
 ただ会いたくてどうしようもなくなる気持ちは、今までだってずっとあった。去年の夏も、冬も。長い休みの度に。
 もう抑えられなくなっただけ。
 心を落ち着けて書くものなのだと習ったような気がするけれど、頭の中には彼女のことばかり浮かぶ。それでも、書かれた文字はまあまあ見られる程度のものに仕上がった。
 彼女のことでいっぱいになって、それ以外何にもないから、ある意味雑念はない状態だったのかもしれない。
 文字にしてみたら、何としても会いに行くんだと決意が固まった。
 『その時返事を聞かせて下さい』
 その思いも、文字にすれば強くなるのかもしれない。
 書いている間、確かに暑さを忘れていられた。
 筆を硯に置く時、指が墨が触れて、またあの軽やかな音が鳴った。
 頭の中は、彼女のことでいっぱいだった。

(end)

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(備考)
 dailymemoを頻繁に更新していた頃に、dailymemo内で、サイト内で過去に書いたことのあるひとたちを、名前を出さずに乱発するという「あのひとら祭」なるよくわからん催し物をやったときに書いたものです。
 「○○の続きを書いてください」と言われる機会も、○○に当てはまる話も、毎回バリエーションに富んでいて、この時は「わかるひとだけわかってにんまりしてくれたらいいな」という気持ちでお応えしてみたんだったと記憶しています。(dailymemoで1回書いたきりで名前もないひとたちの話も書いたっけなー)
 名前を出さないもんだから、いつ何を書いたか記録をのこしていなかったので(更新履歴自体がサイトになかった)、ファイル検索でもみつからなかったりして、今回「過ぎる夏」の関連作を全部見つけ出そうと試みたんですが、これだけしか拾えませんでした…。
 いついつのあれもそうだ、あれはどこだ、まだか、など、ツッコミがございましたら、できればヒントを添えて、教えてくださると探しやすいです…。
 何か、書いてて、おまえそれでも作者かよと、自分でも思います…。