□ ホットココア
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白衣の王子様 index
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 オフィスビルのショッピングフロアにある薬局に勤め始めて最初の冬。
 土日はビル内の人口がぐっと減るから、薬局は休み。これが気に入って働いてるといっても過言ではない。
 と、最初はそれだけのことだったんだけれど。
 金曜の夜。薬局は八時で閉店。もうあと十五分程で店を閉めて、明日明後日は休み。土日はのんびりできそうだ。
 客のいない店内。今日は店員は僕だけだから、店を閉めてすぐに帰りたいし、少しずつ閉店の準備も始めておく。
 ……今日は、来なかったなあ。
 夏の終わり頃からは、用はなくても毎日来てくれるようになった女の子。
 昼休みの時間を心待ちにしすぎる毎日。
 この薬局で働き始めてよかった、と思う理由は、とっくにその女の子の存在に変わってしまっている。
 すぐ小さな怪我や病気をしては薬局に駆け込んでくる。ちょっと抜けてる。けど、可愛らしい。
 白衣につけてるフルネーム入りの名札を見て、大倉さん、と可愛らしい声で呼んでくれる。下の名前までは呼んでもらえないけれど、呼んでくれたことをきっかけに、名字だけは教えてもらえたから、吉野さん、と呼ぶようになった。
 その、僕の名字を呼ぶ声がときどき風邪気味になったりして、特に最近は完全に鼻声だったから、心配していたところだ。
 風邪がひどくなって、仕事を休んだのかな。
 姿が見えないと心配だ。
 けど、それは多分建前。確かに心配だけれど、ずっと見ていられる距離にいたい、そういう望みの方がきっと強い。
 もっと親しいなら、今頃は電話番号だって聞き出してて、今日はどうしたの?と何気なく電話して訊くことができるのに。 
 土日は、今じゃもう、好きじゃなくなってしまった。
 わかりやすい理由だ。会えないからだ。
 大きくはない薬局だから、閉店時間が来たら看板を閉まってシャッターを下ろすだけ。そろそろ看板は仕舞おうかな、五分前だし。
 カウンターを出て、入り口に向かう。
「大倉さん」
 小さくて掠れた声が呼んで、薬局の前に立った。
「吉野さん?」
 いつもは昼休みに来る。閉店間際に来たのはこれが初めてだ。
「まだ、閉店してませんよね?」
「今閉めるところ。……入って」
 コートを着て鞄を持っている吉野さんを手招きして店に入ってもらう。入り口のすぐ側辺りで立ち止まった吉野さんを見ながら店を出て、店の前に置いてある看板を仕舞う。シャッターを下ろすのに使う棒を取りに行くのも面倒で、素手で掴んで引き下ろしてしまう。
「あ、あの、閉店だったら、いいです。また今度にします」
 風邪を引いている声だった。
「いいよ、貸し切り」
 都合も聞かずにシャッターを下ろしたから、店に閉じ込めるような感じになった。帰したくないっていう衝動は、思ったより大きく作用していた。
「風邪薬かな、必要なのは」
 訊ねると、こくりと頷く。
「晩御飯は?」
「食欲がなくて……」
「昼は何時頃食べたの?」
「食べてないです」
「それなのにこの時間まで仕事してたの?」
「いえ、あの、今日は、午後から出社したので……」
 そこで吉野さんはくしゃみをした。
 店内は、もう空調を切ってしまってるんだった。
「おいで」
 少し歩き出してから手招きをすると、とことことついてくる。店の奥の、店員用の部屋に招き入れて、椅子に座らせる。
「あの、風邪薬」
「薬の前に、胃に何か入れないとね」
 目が潤んでるのに気づいた。熱があるのに無理して仕事に出てきたんだろうか。
 店員用の部屋には電子レンジと冷蔵庫、後は食器や食料品を仕舞ってある戸棚とテーブルセットがある。いつもはここで昼食を取ったりする。
 戸棚からマグカップを、冷蔵庫からは牛乳パック取り出す。マグカップに牛乳を注いで、電子レンジにセットする。
「ホントは、ちゃんと何か食べてほしいんだけど……食欲はないんだよね」
 いつもなら、何かを訊ねると、元気な返事をくれる。今は、調子がよくないのか、頷くだけだ。
 レンジがアラームを鳴らす。レンジからマグカップを取り出して、戸棚からスプーンとココアの箱を出してきて、温めた牛乳にココアの粉を加えて混ぜる。
「甘いの、好きだよね」
 ココアが好きだ、と言っていたのを覚えていて、それで買ってしまったココアの粉末。飲まないまま仕舞ってた。
 頷いたのを見てから、マグカップを差し出す。
「熱いから、気をつけて」
 熱そうにしながらも、マグカップを受け取って、ふーふーと息を吹きかけ始める。ゆっくりと一口飲んで、美味しい、と笑った。
 今日は初めて見る笑顔。
 そのことが、こんなに嬉しい。
「大倉さんも、ココア、飲みませんか?」
「いいから、吉野さんが全部飲んで。飲まないと、風邪薬は飲ませないから」
 マグカップを渡すときにかすかに指が触れただけでも動揺できてしまってるから、同じマグカップで一杯のココアを分け合うなんて、できないかもしれない。
「でも、ここ、あんまり暖かくないから、大倉さんも何か暖かいものを」
「うん、じゃあ、お言葉に甘えようかな」
 差し出されたマグカップは、受け取ってテーブルに置く。
 不思議そうに見上げてくる吉野さんの手を掴んで、引っ張って、椅子から立ち上がらせる。掴んで、手がかなり熱いことに気づく。やっぱり、熱があるんだろう。
 その熱を持った小さな体を、ぎゅっと抱き締める。
「大倉さん?」
 驚いて揺れた体を、離さないようにしっかりと抱える。
「あったかい」
「あ、あのっ」
 うろたえた声を聞いても、離せない。
「熱、あるでしょう。駄目だよ、そういう日に仕事に出てきちゃ」
 そう言ったら。
 とても小さな声で、言い返された。
 聞き返したくなるようなことを。
「だって、出勤しないと、大倉さんに会えないから」
 だからって、無理しちゃ駄目だ。そう思うのに、言えない。
「今日会わなかったら、三日間も会えないし」
 とても小さな声だったけれど、掠れて聞き取りにくかったけれど、吉野さんは言った。
 それから。
「私も、あったかいです」
 とどめを刺すように、可愛らしい声が告げる。
 どうしよう。離せない。
「……あの」
「なに?」
「折角入れてもらったココア、冷めちゃいますね」
「……そうだね」
 それでも、振り解こうとされなかった。
 テーブルに置いてある、もう湯気を立てなくなったココアの入ったマグカップ。
 冷めたココアは、また温め直ばいいけれど。
 この手を離したら、もう二度とこうできないかもしれない気がして、そのまま、離すことができなかった。


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