□ 全力疾走する王子様
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白衣の王子様 index
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「ドライブに行こう。運が良ければ、凍った湖が見られると思うよ」
 電話の向こうからでも、いつもと変わらなく穏かに聞こえる声。
 頷いただけでは返事は伝わらないから、慌てて「はいっ」て返事をしたけれど、ちょっとだけ、変な間が開いてしまった。
 それを誤魔化すために「お弁当を作りますね」と言った。「楽しみだな」といつもの調子で言葉が返ってきて、とてもホッとする。
 同僚に大倉さんのことをちゃんと説明した時、あんたらしいけど、と前置きされた後、「いい歳した社会人同士で、中学生の男女交際みたいね。しかもあんたまだ敬語で喋ってんの?王子様のほうはフラストレーション溜まってないのかなあ」と言われた。
 王子様の作り出す穏かな空気が好きだ。穏かな時間を一緒に過ごしてくれる王子様が好きだ。今はそれでいいと思う。
 それを言ったら同僚はきっと、「半年以上経つのに、今はそれでいいも何も」とつっこまれそうだけど。
「待ち合わせは駅でいい?」
「はい」
「じゃあ、ロータリーのところで。何かあったら携帯にかけてね」
 電話をしていると、早く会いたくなる。土曜日だから余計に。土日は、約束をしないと会えないから。
 電話を切った後、明日会えることを思うと楽しいのに、家に帰る時のことを思うと淋しい。
 朝早く出掛けるから、とても朝早く待ち合わせる約束をして、少しでも早く会いたいという気持ちは満たされるはずなのに、待ちきれない。そわそわする。
 冷蔵庫の中身を確認して、お弁当の中身を決定する。いつもいつも、間抜けな失態ばっかりお目にかけるわけにはいかない。少しは出来るってとこも、見てもらわないと。
 私は張り切っていた。
 張り切ると、それが空回りして、ろくな結果にならないってことは、その時点ではすっかり忘れていた。

「うわ、遅刻っ」
 いつもより早起きした。弁当を作って、弁当箱に詰めて、包んで鞄に仕舞って、それから着替えとか身支度。一通りの動作を考えてそれにかかる時間を余裕を多めに計算した。
 それでも、待ち合わせの時間にはギリギリになってしまってる。
 駅までは歩いて五分。全力で走ったら間に合う。
 鞄もコートも引っ掴んで、勢いよく玄関のドアを開けながら靴をはく。髪をまとめる余裕はなかったので、邪魔になったら結わえようとゴムやピン留めをコートのポケットに入れてある。
 コートのポケットに鍵を突っ込んで、腕時計のバンドを留めながらアパートの階段を駆け下りる。
 大丈夫、間に合うはず。
 次の瞬間、思い知った。やっぱり、張り切るとろくなことにならないんだなあ、私。

「え?何?もう一回言って」
 一瞬の間の後、大倉さんは、いつもより少しだけ落ち着きのない話し方で訊き返してきた。
「あの、ちょっと、動けないんですよ」
 日曜の早朝でよかったと思った。階段を上り下りするアパートの住人はいない。それでも一応階段の隅にずるずると移動して、三階の一番下の段に座っている。
 自分の話す声が、アパートの廊下に少しだけ反響する。
「実は、階段から落ちちゃって、足、ひねっちゃったみたいなんですよ」
 できれば言わずに済ませたかったんだけどなあ、と思っている場合じゃないことはよくわかっていて、待ち合わせに遅れることをきちんと詫びなければいけないんだけど。
 多分、出掛けられないなあ、今日は。そう思うととても落ち込んでしまった。
 右の靴は数段下まで転げ落ちて、拾いに行けそうにない。拾えても、右足は腫れてしまって履けないかもしれない。
「あ、でも、そんなにひどくはないと思うので」
 大倉さんが私のそんな説明、信じてくれないだろうなあってことは、わかっていたけど言っておく。出掛けられないと一緒に過ごせないと思って。
 でも、そう言ったところで電話は切れた。
 さすがに呆れられてしまったのかもしれない。
 座り込む階段の冷たさより、そう考えてしまう方が、体を冷たくする。指先までさあっと血の気が引いて、がくがくするような感覚。
 大倉さんの携帯電話にかけ直すのは、切られてしまうかもしれないとちらっと考えてしまったらもう、実行には移せなかった。
 いつまでもここに座っていても仕方がないし。そう思うのに、足の痛みだけじゃなく、立ち上がれない。
 本当なら、今頃、駅で会えてるはずだったのに。
 涙がこぼれそう、と思った時、ちょうどアパートの入口が開く音がした。勢い良く。廊下を走り、階段を駆け上がってくる足音。
 階段の途中に見えた、見慣れた前髪。
 見慣れた、眼鏡の奥の目が、いつもより鋭く細められている。肩で息をして、呼吸が整うまでの短い間、目を合わせてくる。
 呼吸が整うと、歩いて階段を上ってくる。途中で軽く身を屈めて私の靴を拾って、私の足元に屈み込んだ。
 靴を脇に置いて、私の右足に触れる。無言のまま、靴下をそっとずらして足の具合を確かめるように指が撫でていく。鞄の持ち手を握りしめたままだった手に、また力が入ってしまう。
「後から腫れるだろうね」
 声が、硬いと思った。
「ちょっとぐらい遅れたって、別にいいのに」
 怒っているようにも聞こえるし、困っているようでもあり、呆れているようでもある。そのどれもが混ざっていて、少し深めの呼吸は溜め息に聞こえた。
「大倉さん」
 呼んだけど、返事はなかった。
 大倉さんは、私の右足にそーっと靴を履かせる。俯いていて、表情はわからない。
 大倉さんは怒っているのかもしれないのに、その瞬間私の頭に浮かんだのは、シンデレラに靴を履かせる王子様の絵だった。うっとりと空想している場合ではないと、よくわかっているんだけど、どうしても頭から消えてくれない。
 髪は、真っ黒じゃなくてさらさら。触れたことはないけれど、とても柔らかそうだ。眼鏡のフレームも安っぽいものじゃなくて、お医者さんとかそういう職業に相応しい印象がある。レンズの向こうにある瞳も、髪と同じで少し明るく感じる。全体的に、物腰のせいもあるけれど、上品で、とにかく、王子様っていう呼称は決して的外れなものじゃない。
 右足首の痛みも忘れてそんなことを考えていたら、いきなりふわっと体が浮いた。
「ちょっと、暴れないで」
 無意識にばたつかせてしまってた手足を、その声でぴたっと止める。状況がわかったら、今度は固まって動けなくなった。
 大倉さんは、私を抱え上げて、ゆっくりと階段を上る。
「部屋、三階だったっけ」
 揺らがず、危なっかしさもなく、階段を上り終えて廊下を進んで、私の部屋の前で立ち止まった。
「鍵、出せる?」
 さすがにこの体勢じゃ無理で、それを伝える声を出せないまま首を振ると、ゆっくりと床に立つように下ろされた。力が入らなくて、へたりこんでしまいそうだと思う前に、体をしっかりと大倉さんの腕が支えていた。
 鍵を開け、ドアノブをひねりながら引く。その動作の後、また体を持ち上げられた。
 そのまま靴を脱ぐ暇も与えられず、大倉さんは靴を器用に脱いで室内へ進む。ワンルームの窓際、机の側の椅子を引いて、私を下ろす。
「あの、靴」
 室内で靴を履いている違和感を訴えかけてみたら、大倉さんは今気づいたというような表情で私の靴を脱がせて、玄関へ持って行くとまたすぐに戻ってきた。
 表情は、真剣に調剤してる時に似てるけど、ちょっと違うような気もした。怒ってるのと困ってるのと呆れてるのと、その他にまだ別の感情が、その割合を大きく占めている。
「ホントに、見てないとこで何が起きてるか、気が気じゃないよ」
 まっすぐに私を見ている大倉さんの表情は、いつもより穏かさはないけれど、それでもやっぱり、一般的に考えれば、とても穏か。
 心配している表情なんだ、とふと思った。
「今日は、歩かないこと」
 釘をさすように言い置いて、大倉さんは立ち上がる。くるりと背を向けて、玄関の方へ早足で歩いていく。
 歩くなと言われたし、言われなくても足の痛みで歩けない。
「大倉さん」
 呼んだけど、返事はない。振り返りもしないで、素早く靴を履いてる。
「大倉さん」
 もう一度呼ぶ。心配しているんだろうけど、怒ってもいるだろうし呆れてもいるだろう。このまま帰ってしまって、もう二度と会ってもらえないような気がしてくる。
「怒ってますか?」
 恐る恐る訊ねたら、大倉さんはやっと振り返った。表情は、驚いてるのと焦ってるのとが混ざったような感じ。
「車」
「え?」
「車、ロータリーに停めっぱなし」
 軽く睨むような目をこちらに向けて、それから髪をかきあげて苦笑いした。そんな様子も、どうしてか上品に見えてしまう。
 車を放り出して駆けつけるほど焦らせてしまったらしいと、今更気づく。
「十分で戻るから」
 ドアを開けて廊下へ出て、ドアが閉まる音がする前に階段を駆け下りる音が聞こえてくる。
 全力で走って来てくれたんだろう。今もまた、全力で車に戻って車を移動させて、全力で走って戻ってきてくれるんだろう。
 反省するべき場面のはずなんだけど、どうしても頬が緩む。
 きっと、全力疾走する姿も、かっこいいんだろうなあ。すごいなあ。見たいなあ。
 今日はこれからどうするんだろうとか、ちゃんと謝らなくちゃとか、お弁当の入った鞄、派手にひっくり返したりしちゃったから、中身ぐちゃぐちゃだろうなあとか、そういうことは二の次で、どうしても、うっとりとそんなことを考えてしまう。
 穏かに笑ってるのとは違う表情も、綺麗で好きだなあ。いたずらっぽく睨んでもどこか上品で王子様みたいで。
 階段を駆け上る音が聞こえてくる。王子様が全力疾走している音。
 今はまだ、それでいいと思う。私は充分幸せ者だ。
 だから今度は王子様を幸せにしてあげないと。
 張り切ると、それが空回りしてろくな結果にならないってことを、私はまた頭の中からすっかり消去してしまっていた。


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