□ 過ぎる夏 後日談2
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瞬きを何度か。それで、しょぼしょぼする目は少しだけすっきりした。
カーテンのわずかな隙間から、鋭い光が差し込む。それが眩しくて、瞬きは止める。
そこでやっと、鈍い頭痛に気がついた。
滅多に経験しない、アルコールを摂取し過ぎた後に起こる種類の頭痛。
額に手を当てようとして、腕を動かせないことに気がついて、そこでやっと意識がはっきりした。
抱えている、腕の中の体温。右腕を枕にして、背を向けて、静かな寝息を立てている。
わずかに丸めた背中。ここしばらくは伸ばしている髪。小さく身じろいだ拍子に、さら、と、本当に微かな音を立てて髪が肩からこぼれた。
自由になる左手を、ゆっくりと持ち上げて額に当てる。そんなことをしても頭痛は取れない。
絨毯の上、毛布をかけていても空気は冷え切っているから寒い。
肩まで毛布を引き上げようと手を伸ばしたら、右腕に乗せられている頭がころりとこちらに向いた。
思い出せなかった。何で居間の床で寝てるのか。何で佐保を抱えて寝てるのか。どれだけ酒を飲んだのか。何一つ。
「佐保?」
寝返りを打った。起きているのか確かめようと、小さく声をかけた。ぎゅっと強く目をつむって眉を寄せるけれど、目を開けそうではない。眉間に皺を寄せている時間は短くて、すぐに穏かな表情になる。
よく寝てるから、起こさないでいよう。
でも、自分は目が冴えてきた。今は何時ぐらいだろう。頭痛がする。喉が乾く。
首の向きを変えたら、テーブルが見えた。テーブルの上に、アルコール飲料らしい缶がいくつも見える。多分中身は空だろう。その他にも瓶がある。あれも多分、空。
多分、じゃなくて、空だ。少しずつ思い出す。
「どれだけ飲んだら佐藤は酔っ払うん?」
「さあ、知らん。限界まで飲むことないし」
「飲んでみたら?」
「え?」
「ようけ買うてきたしなあ。試せるんちゃう?」
「そう言うて、俺だけに飲ますつもりなんか?」
「あたしも飲むけど、そないには飲めへんのん、わかってるからなあ」
その時点で既に佐保の頬は赤くなっていて、目はほんの少し潤んでた。どう見ても、酔い始めているとすぐにわかる。
「ほら、飲んで飲んで」
空になったコップに缶からビールを注ぐ、その手つきが少し危なっかしく感じる。
「せやけど、飲んだら食えんようなるし」
言うと、俺の手からコップをもぎ取った。
「ほな、こっちにしとこう。アルコール度考えたら、こっちの方が効率ええし」
何の効率だ、と思う俺の手にグラスが押しつけられ、佐保はワインのボトルを構える。料理に使った残りの赤ワイン。
「佐保、もう酔うてるんか?」
念の為に訊ねてみた。
「コップ一杯では酔わへんよ」
飲んだのがビールだけならな、と思いながら答えを聞く。料理に使った残りにしては少ない、ボトルの中のワイン。
「佐保、ワインどれくらい飲んだ?」
「せやから、コップ一杯」
どんなコップで飲んだんだ、と考えて、台所にあった軽量カップを思い出した。
料理を終えて、盛りつけて、食べ始めて間もないのに、佐保はいつもの一割増程度の笑顔をずっと浮かべたままだった。空腹で軽量カップ一杯のワインを飲めば、そりゃあ多少は回るだろう。
「ほらー、飲んでや。あたしの酌では飲めへんとか言う?」
普段ならそれが冗談だろうとわかったんだろうけど、今の佐保だと、酔いのせいかもしれないという気もした。
そんな佐保に勧められるままに飲んで、飲んで、飲んだ。
どれぐらい飲んだのか、正確にはわからない。それなりの量を飲まされたということは、テーブルの上の空き缶や空き瓶でわかる。
大量に飲むと、酔っ払うというよりも眠くなる。
それでここでそのまま寝てしまったんだろう、と結論づけたところで、佐保が小さくうめいた。
「起きた?」
声をかけると、ゆっくりと目を開いて、それから眩しそうに目を細めた。
「今、何時?」
額に手を当てながら佐保が訊いてくる。このままだと時計が見えないので、佐保を抱えたままで体を起こした。
「七時やな」
壁にかかる時計に目をやって、答えてから佐保に視線を戻す。まだぼんやりしているように見える。
「……夜の?」
「そんなわけないやろ」
「……そうやんなあ」
反応が鈍いようで、ちゃんと会話が成り立っている。寝ぼけているわけではなさそう。
「佐保も、頭痛いんか?」
「も、って、佐藤も?」
額に当てた手をこめかみに滑らせて、くるくるとさする様子。
「完全に飲み過ぎやわー……」
普段より抑えた声。俺だけでなく、佐保もかなり飲んだらしい。
佐保が手を床について、わずかによろけながら立ち上がる。歩いて台所に入っていってしばらくして、水を蛇口から出す音が聞こえた。
佐保が水を入れたコップを二つ持って台所から出て来た時、俺は棚に置いてあった薬箱を開けた所。
「薬飲むの?」
「いや、佐保が飲むかと思て」
「何か食べてからやないとなあ」
「昨日の残り食べる?」
「胃にきつそう」
佐保の顔が少し青く見える。カーテンを全部開けてからもう一度佐保を見る。昨夜は頬を赤くして楽しそうに飲んでたのに、今は辛そうだ。
「ごめん、少し寝たい」
「ああ、奥の部屋使い。着替え持ってくるわ」
頷いて、水を飲み干して、さっきよりも危なっかしい歩き方で居間を出て行こうとする佐保に、すぐに追いついて肩を支える。
「佐藤は全然平気そうやなあ」
「ちょっと頭痛いけどな」
「胃は平気なんやろ?」
「うん」
「あんなに飲んで、かなり酔うとったのになあ」
佐保の言葉に、足が止まってしまう。
「……かなり?」
「……覚えてへんのん?」
佐保が怪訝そうに俺を見上げる。
「服、このままでええわ。着替えるんしんどいから」
ベッドにのろのろと上がると、ごろんと転がる。かなり酔っていたことについては何にも言わないまま、背中を向けて。
「俺、そんなに酔うとった?」
「うん、かなり」
佐保の声が眠そうになっていくのを聞きながら、記憶を探る。
佐保が小さくおやすみと言った後も、寝息を立て始めた後も、結局何にも思い出せなかった。
起きてこない佐保。適当に片付けたテーブルの上。殆ど残さないで食べてしまった昨夜の料理。
今親父が帰ってきたら、絶対口論に発展する。……普段なら。
でも、帰って来ない。さっき電話があって、帰宅は夜になると言われた。佐保が来てて、今寝てると言ったからだと思う。
変に誤解して気を利かせたつもりで言ってるんならまだよかった。これっぽっちも誤解せず正確に現状を把握して、その上で気を利かせているとわかるので、性質が悪い。
「何なら、帰るのは明日にしようか?」
表情まで思い浮かぶ口調で、笑いを滲ませながら言われた。言い終わった後笑い出したし、あからさまに楽しんでる。
そんなことはまあいい。問題は、思い出せないことだ。
俺は、酔って何をしたんだろう。
お昼を回っても佐保は起きてこない。クリスマスイブは過ぎ、クリスマスも半分過ぎた。ケーキを焼いてもらえたし、手料理も食べさせてもらえた。思いがけずそのまま朝まで一緒に過ごした。こう言えば、豪華なクリスマスだったと聞こえるだろう。
自分が何かとんでもないことをしたんじゃないかと、時間が経てば経つ程不安になってくる。
佐保が起きてこないのは、俺に腹を立てているせいだったりするんだろうか、とか。
既に冷静じゃなかった。
佐保が俺に腹を立ててるなら、起きてすぐに帰っただろう。そうでなくても、昨日の内に帰ってしまってただろう。
そういうことに考えが届かなかった。
佐保のことになると、情けないくらい冷静じゃなくなる。
いい加減歯止めが利かない。その内暴走しそうでまずい。
アルコールのせいで暴走して勢いづいて何かとんでもないことを、既にしているのかもしれない。
日が傾くのを眺めながら、それでもやっぱり、何にも思い出すことはできない。
佐保は、まだ起きてこなかった。
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