□ 弟の友達 2
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2. 名前の意味

 鍋底をたわしでこすりながら、私の意識は鍋になんか集中してなかった。
「ゆりこさん、カレー美味しかった、ありがとう」
 頭の中で再生され続ける声と笑顔。
 麦茶を沸かしていたやかんから勢いよく湯気が立ち昇ったのが視界に入って、ふと我に返る。
 別に寒いわけじゃないから、熱い麦茶を持っていってもしょうがないかも。
 コーヒーがいいのか、紅茶にしておこうか、無難に緑茶だろうか。そんなことを考えながら、左手の泡を軽くゆすいでコンロの火を止める。
 焦げついてたわけでもない鍋底は、かなりぴかぴかになっている。やりすぎだ。
 もう既に厄介なことになっていると思った。
 
「姉貴」
 足音と共に現れた弟は、手にスナック菓子の袋を持っている。
「これ入れとく皿かなんかない?」
「袋のままでいいでしょ」
「袋開けんの失敗したんだよ、伊藤が」
 もう既に名前を聞くだけでぎくっとするほどになってる。
 隠すように戸棚の方に向きを変えて、少し大きめの皿を出す。
「ホントに勉強してんでしょうね?」
「してるよ。来週提出なんだけど、明日は出かけるから」
「朝早いの?」
「多分」
「朝ご飯どうすんのよ」
「適当に食うから寝てていいよ」
「あたしの朝ご飯まで食べられちゃ困るのよ」
「あー、そういうこと?じゃ、夜中にコンビニで買ってくる」
「そうして」
 話しながら皿にお菓子を移し終えて、用事が済んだ弟はまた二階の自分の部屋へ戻っていこうとする。
「あ、葉一」
「ん?」
 呼びとめた弟に、目的以外のことを訊ねそうな自分に焦る。
「飲み物、何がいいの」
「んー、伊藤コーヒー飲めねえからな、緑茶でいいよ」
 トントンと階段を昇る足音が遠ざかっていくのを聞きながら、ふーん、コーヒー駄目なんだ、とか反芻しちゃってる自分をおかしく感じる。
 伊藤くんの名前、何て言うの?
 そう訊ねてしまいそうになってた自分も、ものすごくおかしい。
 このおかしい状況が何を表してるのか、わからないほど馬鹿じゃない。
 ……やっぱり馬鹿かも。厄介なことになってること自体が。

「お茶、入れてきた」
 一応ノックしてドアが内側から開くのを待つ。
 ドアを開けたのは伊藤くんだった。
「あ、ありがとう」
 敬語じゃないのは、年上にはみえないせいなのか、親しみを込めてるせいなのか。そんなところまで気になってしまう。馬鹿みたい。
「ゆりこさんも食べてってよ、ちょっと買い過ぎた」
 自分の部屋でもないのに、招き入れるように大きくドアを開けて横にずれる。その途端に室内のテーブルの上に勉強道具ではなくお菓子がめいっぱい広がってるのが目に入った。
「……勉強、してないんじゃないの」
 小さく呟いた。自分にしか聞こえないくらいの声で。
 だけど、すぐ側で伊藤くんがくすっと笑ったので、聞こえたらしいとわかった。
「姉貴も食って。何ならこれ朝飯に回してもいいんじゃない?」
 弟が馬鹿なことを言う。
「そう思うなら葉一だけそうすれば」
 葉一は、結構馬鹿やって見せるしょうがない弟だけど、姉に反抗的だったりはしない。姉弟の仲は、まあまあいい方だと思う。
「仲いいね、鈴木とゆりこさん」
 ドアを閉めて伊藤くんが言う。
「まあ、悪くはないわね」
 丁度そのことを考えてたの、気づかれたんだろうか。そんな風に考えちゃうのも、やっぱり馬鹿みたい。
「おいおい、何で俺が名字で姉貴が名前なんだよ」
「じゃあ葉一って呼んでやる」
「葉一様」
「よういっちゃんは馬鹿ですか?」
 もっと馬鹿がいた。何気にノリいいなあ、この二人。
「あんた、学校ではよういっちゃんなんて呼ばれてんの?」
 思わず訊いてみたくなってしまった。
「まさか」
 葉一は即答で否定。
「俺は普通に葉一で通ってるよ」
「鈴木は一人だけでいいよな。何で伊藤は三人もいるんだろ。先生達もクラス分けの時配慮してくれればいいのに」
「へえ、鈴木の方が平凡な名前なのにね」
「絶対、先生ら、面白がって同じクラスにしたんだぜ。学年中の伊藤を一つのクラスにまとめるなんてさ」
 自然に会話に混ざれてるみたい。お菓子をつまみながら話す二人を見ながら、頭の隅で考える。
「そうそう、だから区別する為に名前で呼ばれちゃうんだよねえ」
 伊藤くんはそれがちょっと嫌なんだろうか。
「ここには一人だから、伊藤くんで大丈夫だね」
 でも、私が言うと、苦笑い。
「鈴木が二人だから、葉一とゆりこさんで区別しなきゃね」
 苦笑いのまま、伊藤くんが言う。
 区別しなきゃいけないほど長くは同席しないよ、と言おうと思ったところへ、葉一が別のお菓子を差し出してくる。
「姉貴、これ食ってないだろ」
「え、ああ、食べてないけど」
「期間限定だから食っとけば。俺コップ取ってくるわ。こいつ、ジュースも馬鹿みたいにいっぱい買って来やがってさあ」
 何だ、お茶淹れなくても飲むものあったんじゃないの。
 そう言う前に葉一が立ち上がる。
「別に多い分には困らないだろ」
 伊藤くんが葉一の背中に言葉を投げる。
 葉一はそれに返事はしないで、部屋を出ていった。
 室内にぽつんと二人。急に会話がなくなる。
 ぱくぱくお菓子を食べるのもどうか、と思って緑茶をすする。ちらっと伊藤くんを見ると、伊藤くんも同じように緑茶の入った湯飲みを持ってこっちをちらっと見たところだった。
「……何?」
 どきっとしながら、何とかそう訊ねる。そしたら、伊藤くんはちょっとだけ目を細めた。
「ゆりこって、どういう字、書くの?」
 呼び捨てにされたみたいで、鼓動が速くなる。
「どういうって、そのまま」
 喋りにくい。鼓動が邪魔。
「そのままって?」
「ユリの花の百合に、こどもの子」
「そっか」
 今度は、さっき見たばかりなのにもう記憶の中で何度も再生したあの笑顔になった。
「綺麗な名前だね」
「そうかな」
「名前の由来って、植物繋がり?葉一は葉っぱの字が入るよね」
「そうだろうね、多分」
 詳しく聞いたことはないけど。私が言うと、伊藤くんは黙った。そのまま会話が途切れてしまった。
「……百合子さん」
 また、ちょっと困りながら緑茶を飲んでると、伊藤くんが私を呼ぶ。
「俺の名前も訊いてよ」
「え……あ、ああ、伊藤くんは、何て名前なの?」
「まさき」
「そっか」
「……どういう字書くのって訊いてくれないの?」
 笑顔のまま言われて、どきどきはピークに達しそうだ。
「まさきって、どういう字、書くの?」
 やっと何とか訊ねたのに、すぐには返事がない。沈黙が重い。何で黙るの?
「ああ、ごめん、何か呼び捨てにされたみたいで、ちょっとどきっとしてしまった」
 全然普通そうに見えるくせに。しかも、相変わらず笑顔のままなのに。私と同じ事考えてる。
「真実の真に、樹木の樹で、真樹」
 言葉を聞きながら、頭の中で漢字を書いていく。
「ちょっと嫌なんだよな」
「え?」
 漢字を思い描いてたから、咄嗟に反応できなかった。
「だって、女の子の名前っぽいじゃん。クラスでも俺、まきちゃんって呼ばれてんだよ」
 さっきの苦笑いの理由は、これなのかな。でも、ちょっと面白い。女の子になんか見えない背の高い男の子なのに、まきちゃんって呼ばれてるところを想像すると、少し笑ってしまう。
「やっぱ笑うよなあ」
 いじけたような表情は、ちょっと可愛らしい。
「いいじゃない可愛くて。真樹くんに似合うよ」
「そうかな」
「うん」
 また笑顔に戻った。それを、妙に嬉しく思いながら眺める。やっとどきどきも治まり始めた。でも。
「そういえば、俺の名前も植物繋がりだし、仲良くしてね」
 その一言でまた跳ね上がる。
 そういえば葉一は、コップ取ってくるだけなのに、何でこんなに時間かかってんのよ。
 駄目だ。目の前の笑顔を見てると、葉一のことなんかあっさりどこかへ飛んでいってしまって、他のことは何も考えられなくなってくる。
 やっぱりもう、かなり厄介なことになっちゃってる。


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