□ 弟の友達 6
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6. 私の友達

 黙々と、テーブルに食器を並べる。
 二階から降りてくる足音、洗面所から聞こえる水の音。蛇口をひねる音の後、水の音が止む。もうすぐここにくる。
 心臓の音が耳元でも鳴ってる。うるさいほどに。どんな顔をすれば?どんな?焦る気持ちが鼓動を早めていく。
「おはよう」
 声に、振り返れない。お皿におかずを盛り付けてる手が、みっともなくびくっと震えた。
 椅子を引く音がやたら大きく聞こえた。背中に視線が突き刺さるみたいに向けられてるのも、気のせいではないと思う。
 お盆におかずの皿を置いて、茶碗にご飯をよそって。向きを変える瞬間、ちらりと、テーブルについてじっとこちらを見ている真樹くんが視界に入った。
 昨日と変わらない。もっと言えば、昨日の夕食の時と変わらない。
 一晩しか経ってない。まだ二十四時間も経過してない。
 それなのに私は。
 お盆を持ってテーブルまで歩く、その短い距離に不安になる。落ち着かない。転んでお盆の中身をぶちまけそう。
「ほんとだ、卵焼きと鮭と味噌汁だ」
 真樹くんは、昨日と変わらない笑顔を浮かべてる。取り乱してなんかない、普通の態度。
「大したもんじゃないけど、どうぞ」
 言いながら、テーブルにお皿を置く。手が震えそう。
「百合子さんは、食べないの?」
「食べるよ」
 自分の分は、後から運んでくるだけ。そう、普通に話すことが出来ない。一言口に出すだけで精一杯。
「先食べてて」
 真樹くんの朝食を全部置き終えて、台所へ戻る前にまた一言だけ。
 これじゃ、食べられない。
 昨日の晩御飯みたいに、ここで食べようか、とガスレンジを意味なく見つめる。
 こんなんじゃ、目の前じゃ緊張して、食べられるわけがない。
 たった一晩。それだけで、こんなに変わってしまった。厄介なんて言葉で言い表せる限界を超えてる。昨夜は怒ってたのに。今は。
「百合子さーん」
 名前を呼ばれてはっとする。
「早く食べようよー」
 その言葉が、先に食べていてと言ったことを守っていないんだと伝えてくる。律儀に待たなくてもいいのに。そう思いながら、どこかで嬉しいと思ってることにも簡単に気づいてしまう。
 こんなことになるなんて。

「うまかった、ごちそうさま」
 綺麗に残さず食べ終えて、きっちりそう言う。躾がしっかりしてるってことなのかなあ、とか考えてしまいながら。お粗末さまでしたと返す。昨夜は一言も返せないままだった。
 食事中も、何とか返事はしたけれど、会話になっていたかというと自信はない。昨日は色々と話せたのに、もう駄目。どうやって喋ってたのかも思い出せないくらいの緊張。
「片付け、手伝うよ」
 意外だと思った。だって、葉一なんか、全然手伝わないもの。手伝うって口にすることすらないし。ああ、気を使ってるのかなあ。
「いいよ」
「俺、得意だよ?」
 結局、押しきられてしまった。私が泡を水でゆすいだ食器を置くと、それを真樹くんが拭いていく。洗い終わると私は拭き終った食器を戸棚に仕舞う。
「家でもよく手伝うの?」
「手伝うというか、俺が家事担当だから」
「そうなんだ」
 葉一とはえらい違いだわ、と思いながらお茶を淹れる用意をする。
「あ、こんなゆっくりしててよかったの?」
「え、何が?」
「朝早いって昨日葉一が言ってたんだけど」
「あー、葉一はね。今日デートって話だったから。俺は別に用事ないし、急いでないよ」
「そうなの?」
 台所を片付け終わって、真樹くんは手持ち無沙汰って感じだ。急須と湯呑をお盆に乗せたのを見て、真樹くんはテーブルへと戻る。後ろに続くように私も歩く。
 テーブルについてお茶を淹れて飲んでも、私達は黙ったままだった。
 間が持たない。何度も湯呑を口元へ運ぶ真樹くんを見てたら、間が持たないのはお互い様みたいだ。
 意図的に避けてる言葉があって、私は口を開けない。真樹くんは、どうしてかはわからない。
 私が、もう帰ってもいいよ、というのを待っているのかもしれない。開放されるのを待っているのかも。
 そう言えばいい。もう真樹くんが家にいなきゃいけない用事はない。土曜なんだし。まだ朝なんだし。どうせ明日の夜まで葉一は帰って来ないっていうんだし。
 何で黙っちゃってるんだろう。その理由はもう、考えるまでもないくらいに膨れ上がってしまってる。
 真樹くんは、違う理由で黙っているんだろう。理由なんてないのかもしれない。ただ帰る気にはなってないだけだとか。……考えたってわかるわけない。私は真樹くんじゃないし、真樹くんの考えてることが読める程真樹くんを知らない。
 知らないのに。
「……葉一もいないし、もう課題も終わったし」
 その言葉を先に口に出したのは、結局は真樹くんだった。
 そこで言葉を切って、少し黙って、考え込むような目をしている。
 続きを聞きたいような、聞きたくないような。
「百合子さんは、今日、暇?」
「え?……特に予定はないけど」
「じゃあ、どっかいこっか」
「どっか?」
「昼飯おごるよ。昨日のカレーとさっきのご飯のお礼」
「葉一の課題、手伝ってもらったし」
「そのお礼は葉一にさせるし」
 駄目だ、全然頭が回らない。これ、舞い上がってるっていうやつだ。
 はいって返事もできないくらい、舞い上がってしまってるんだ、私は。昨夜眠らなかったことも忘れて。
 そこで、家の電話が鳴った。
 返事をする前に、まずその電話に出なきゃならなかった。

「はい、鈴木です」
「あ、ゆりこ?のりこです」
 大学の、同じ学科の子だ。
「どしたの?」
 日曜の朝に家に電話をかけてくる事どころか、家の電話番号を知ってた事自体に驚いてしまう相手。
「今日の夜、暇?」
「え?夜?何で?」
 電話はコードレスじゃない。居間の片隅に置かれた電話台の前で話している私を、近くで真樹くんが見ている。
「合コンのメンバーが足りなくて。よかったら出てもらえないかなあって」
「合コン?」
 口に出して、しまったと思った。そんなことを思う必要なんかないはずなのに、思ってしまった。視線を感じるのは気のせいじゃない。そちらを向けないけれど。
 しまったと思うのも、そちらを向けないのも、私が真樹くんを痛いほど意識しているせいだ。
 合コンって聞こえて、真樹くんはどう思うだろう。
 何とも思わない、という可能性がすぐに頭に浮かんでこない自分が可笑しい。
「都合つく?」
 都合はつくだろう。
 けど、つける気はない。
 合コンでなければ行ってもよかったけど。
 これが昨日の夕方以前に言われたことなら、了解していただろうけど。
「ゴメン、ちょっと無理」
「何とかならないかなー」
「もう約束入れちゃったから」
「彼氏とか?」
「違うよ、友達」
「そう?じゃあ、しょうがないか。またの機会によろしくねー」
 何とか引き下がってもらえた。そこで話題もなくなり、短い電話はおしまい。
 受話器を置いても、電話台の前から動けないまま。俯いてしまった。
 視線を感じる。
「今の、友達?」
 真樹くんの声は、いつもどおりだ。
「うん。大学の、同じ学科の子」
 私の返事は、とてもいつもどおりとは言えない。変に震えそうな、頼りない声。自分の声じゃないみたいな。
「今日、予定入りそうだったんじゃないの?」
「ううん」
「何で断ったの?」
 訊ねられて、返事に困る。
 答えはわかり切ってるけど、それをそのまま真樹くんに伝えるのは躊躇われた。昨日の今日。二十四時間前は知らない人だった、弟の友達。
「俺が誘ったから?」
「そういうわけじゃないよ」
「無理にだったら、いいよ?そっちの約束、優先してくれて」
 返事に困る。
 友達というほど親しくない子だし。という理由は正しいけれど、それが一番の理由ではないし。
 無理にじゃないの、優先したい方をちゃんと優先してるから。といえば、こちらの気持ちが見え見えだ。
「俺、帰ろうかな」
 気を利かせてくれているのかも。
 友達との約束を、自分との約束より優先させて下さいって、気を使われているのかも。
 そんなんじゃなくて、ただ単に気が変わっただけかも。
 軽い気持ちで誘ってはみたけど、やっぱりやめようと思っただけかも。
 最初から、大した意味はなかったのかも。
「どうして誘ったの?」
 わからないなら、訊いてしまおう。
「え?」
 真樹くんの表情が崩れた。
 困ったような顔になって、口元を手で覆ってしまって、表情がわかりにくい。
「何でって、それは」
 声も、困ってる感じ。
「わからない?」
 わかったら訊いてないよ。そう言えばいいのに、うまく話せない。
「俺、帰ったほうがいいかな」
 質問の答えより先に、別の疑問を投げかけられた。昨夜と同じような。
「それとも、友達って、俺の事だったりする?」
 答えられなくなった。
 友達だとは思えない。
 友達じゃない。
 友達以上にしたい。
 どう言っていいのか、困って、何にも言えなくなった。


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