□ 弟の友達 4
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4. 弟の恋人

「とりあえず、課題やろうか」
 私はなるべく平然を装って切り出した。
 真樹くんは、えっ?って顔をした。
「何の教科なの?量は?」
 テーブルの上のお菓子やジュースを片付けて、勉強を始めるスペースを作る。
「英語で、全部訳すやつ」
 真樹くんは、英語の教科書ではなく、学校で印刷して綴じられたらしいわら半紙の冊子をテーブルの上に置いた。
「これ、一冊まるごと?」
 私の質問に真樹くんは頷く、冊子は全体で八ページ程で、挿絵はなくて表紙と裏表紙以外は英文でぎっちり埋まっている。実質六ページ分。
「百合子さん、英文科なんでしょ?」
「そう。……あー、だから葉一、あたしに手伝わせることにしたわけね」
 英語を学んでいるからといって、得意なのかというとまた話は別。読むだけでスラスラ訳せれるなんてレベルでは、当然ない。
「この冊子の文章って、授業でちょっとずつ訳したりしてた?」
「いや、これは追課題なんだ」
「ツイカダイ?」
「葉一、夏休みの宿題、提出しなかったから」
 葉一、やっぱり馬鹿だわ。それで受験生だってんだから、姉としては頭が痛い。
「辞書がいるなあ……」
 葉一の部屋には大きな本棚があるけど、収まっているのは漫画ばかりだ。辞書とか、どこにしまってるんだろう。
 勉強机の上や棚にさえ漫画がぎっしり。家では勉強しないとでもいうかのような状態。
 辞書がどこにあるのか、真樹くんに訊くのもおかしい話だ。第一、家に連れてきたのはこれが初めてだから、知ってるはずないし。
「ちょっと、取ってくるね」
 自分の部屋まで辞書を取りに戻ってきて、ドアを閉める。思わず大きく息を吐いて、ドアにもたれかかる。
 帰らないで、と言葉にしたわけじゃない。それでも、引き留めることになってる。
 真樹くんが課題を手伝う必要は、無いと言えば無い。元はといえば、追課題を出されるようなことをしている葉一が馬鹿なんであって、真樹くんの課題ではないんだし。
 もっとよく考えてみれば、私が課題を手伝う必要だってないな。義理だってない。
 この場合、馬鹿な弟に代わって謝って、私が課題を仕上げておくのがいいんだろうか。
 大体、どこへ行ったんだか、あの馬鹿は。
 それより、帰ってこないってどういう意味だ。
 今時の男子高校生なら、朝帰りだとかそういうの、やっても別に不思議じゃないんだろうけど、葉一がそういうことを急に、事前に断りもなくやらかすというのは、これが初めて。
 予定があれば、真樹くんを家に招いたりはしなかっただろうし。
 問題は、そういうことじゃないんだけど。
 手に持った課題の冊子。英文の。
 一から訳すのは、面倒。どう考えても。
 ちょっと考えて、私はパソコンに向かった。
 電源は入れてあったから、テキストエディタを開いて、冊子の英文をタイプし始める。
 そこで、ドアがノックされる音がした。
「百合子さん、辞書あった?」
 真樹くんの声。
 慌ててドアまで行って、開ける。入って、と言うのは躊躇われて、体は引かなかった。
「あのね、パソコンで、翻訳ツール使うことにする」
「翻訳ツール?検索サイトとかの?」
「そう。その後、変な訳のとこは手直しするの」
 辞書を片手に少しずつ訳していくのは、面倒。これでやるほうが手っ取り早いはず。
 いい案だ、と私は軽く微笑んだ。けれど、真樹くんは表情を硬くした。
「……早く終わりそうだけど、それだと俺、手伝えないね」
「葉一が悪いんだし、元々真樹くんが手伝う義理もないでしょ」
「百合子さんが手伝う義理もないよね」
「まあ、そうだけどね」
「……どうしようかな」
 真樹くんが、そう言って黙り込んだ。そしてしばらくの沈黙の後、大きくはない、でもはっきりと耳に届く声で呟いた。
「俺、帰った方がいいのかな」
「……私に、訊くの?」
 ほんの少し躊躇って、結局は口にした言葉。ドアにかけた手に、無意識の内に力がこもっていることにこの時やっと気づく。
 変な緊張感を自覚して、その理由に思い当たらないまま、わずかな息苦しさを飲み込もうとする。
「お邪魔じゃなければ、いてもいいかな?翻訳ツールにかけた後の手直しなら、手伝えそうだし」
 おかしい。真樹くんがそう言ったら、手にこもっていた力がすっと抜けたのがわかった。私は、真樹くんが帰らないつもりだということに、安心しているようだった。
「こちらこそ、迷惑でなければ、手伝ってもらえると助かる。とりあえず、プリントアウトして持っていくから、葉一の部屋でのんびりしてて」
 落ち着かないと。力が抜けたのと同時に、心臓は速く打ち始めてる。緊張、ともいえる状態。だけどこれは。
 真樹くんが離れて、部屋のドアを閉じると、私はまた大きく息を履吐いてドアにもたれかかった。
 頭の中のもやもやを振り払うように首を横に振って、机に向かう。一人になった間に、落ち着かないと。
 葉一の馬鹿のことも気になるし、早くこれを片づけよう。

 三十分程経った後、打った英文を翻訳してプリントアウトしたものと辞書を持って葉一の部屋に戻る。
 真樹くんは本を読んでいた。サイズからして文庫本。葉一の部屋にあったものではなさそう。私の足音に気づいて、顔を上げると小さく微笑んだ。
「何の本?」
「推理小説」
「面白いの?」
「うん、シリーズものでね、はまってるんだ」
「受験勉強の合間の息抜きって感じかな?」
「や、最近はもう、かなり読書に時間割いちゃってる。やばいって思うんだけど、面白くて止まらないんだよね」
 こういう会話は、漫画ばっかり読んでる葉一とは成り立たない。新鮮な感じ。
「半分ずつやろうか」
 こっちから言う前に、翻訳文のプリントアウトを半分持っていく手は大きい。葉一の手も大きいけど、真樹くんは弟より体も大きい。うちで一番大きいのは葉一だから、やっぱり新鮮な感じがする。
 冊子の英文と、翻訳を見比べて、変なところを手直ししていく。思ったより引っかかるところが少ないのは、英文が教科書に載ってるそのまんまの、複雑でない種類の文章だからかも。
 黙々と、ではなく、お菓子をつまみながら、ジュースを飲んだりして、雑談まじりに進めているのに、作業は順調に進んでいる。
「百合子さん」
「ん?」
「葉一、彼女がいるの、知ってた?」
 その話は唐突で、私はぱっと顔を上げた。
 顔を伏せていると思っていた真樹くんは、顔を上げてじっとこちらを見ていた。
「いてもおかしくはないなーとは思ってたけど、直接聞いたこともないし……知らなかったなあ」
「優しい、弟思いのお姉さんだから、ショック受けたりするかなあって思ったけど、大丈夫そうだね」
 ちょっと驚いたけど、まあその程度。
 それより、『優しい』だの『弟思い』だの言われる方が、ショックではないんだけど、何というか、その。変な感じ。
 でも。
「彼女の家に、泊まるんだって」
 さすがに、この言葉には、衝撃があった。彼女の家に泊まるという言葉から連想されることはそう多くはない。
 自分より体の小さかった弟が、いつの間にか私の身長を追い越して、私が妹に見える程に成長した。子供だと思っていた弟が、そういうことをするだろうという想像。不思議。でも、何だか私が葉一の保護者みたいな感覚だった。
「……親には、黙っといてあげるべきかな、これは」
 それが一番大きな問題として頭に浮かぶ辺り、理解のあるいい姉と言えなくもないかもしれない。
「口止め料に、何か要求しようかな」
 そう言って笑うと、真樹くんも笑った。
「彼女って、どんな子かなあ。その内家にも連れてくるかな?真樹くんは、会ったことあるの?」
「あるよ。隣りのクラスの子だから。去年はクラスも一緒だったし」
「どんな子?」
 単純な好奇心だけで訊ねると、真樹くんがくすっと笑う。
「名前が面白いんだ」
 近くにあったノートを手元に引き寄せて、真樹くんは何かを書いた後、それを私の前に差し出した。
 面白い、と言った理由はすぐにわかった。ノートに書かれた文字は、人の名前らしい。鈴木という名字に、一と葉の文字が続く。
「面白いだろ?ひっくり返しただけなんだもんなあ」
「かずは、って読むの?」
「そう」
 葉一と書いてよういちと読む弟と、一葉と書いてかずはと読む弟の彼女。二人とも名字は鈴木。
「そういう偶然って、何か、面白いっていうか、素敵だね」
 そういう二人が出会うというのも、何だか運命的というか。こんな考えが自分にはあまり似合わないことはわかっていても、純粋な憧れみたいな感情は湧いてくる。
 私の言葉に、真樹くんは返事をしなかった。目を細めて、今までとは少し違う微笑みを浮かべていた。
 楽しそう、という印象ではなくて、穏やかなのに私の胸をざわつかせる笑みだった。


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