□ 冬季限定 4
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一月上旬

「……お願いだから、邪魔しないでくれる?」
 心底うんざりした、という表情を隠そうともしないで、有坂は私に言った。
 占領されている机の引出しから、預金通帳と印鑑を取り出したい。そう頼んだだけで。
 早く冬休みなんか終わってしまえ、と心の底から思った。
 こいつが一日中家にいると、ろくなことがない。
 私は、自分で借りている自分の家にいるだけなのに、人の気配が邪魔だとか、繊細ぶってみたりする。
 本当にそんな小さなことが気になって勉強に集中できないような繊細な心を持っているのなら、バイトで一緒になっただけの一人暮らしの女の家に転がり込ませろなんて無理は言わないはずだ。
 実際、とても勝手な奴だ。
 私はただの一度も、私の部屋で一緒に住みましょう、なんて言ったことはないし、了承はしていない。
 ただ、追い出せないだけだった。惹かれているから、手放したくなかっただけ。
 冬休みが終わって学校に行く。私も彼も。
 帰ってこなかったりする。そうかと思うと次の日には帰ってくる。
 帰ってくるというのはおかしい。ここは私の部屋であって有坂の部屋ではないし。
 戻ってくる度に荷物が少しずつ増えていく。
 苛立ちも増していく。
 だから事情は訊ねない。多分、自分の本来の部屋に帰っているんだろうと、勝手に想像しておく。
 食費が浮いて助かるし。その程度に思っておけばいい。その浮いた食費も、その期間俺はここにはいなかったし、とごねられてもいいように、退けてある。返せと迫られたらつき返してやるつもりだ。
 クリスマスに少し和らいだ雰囲気は、今までになくぴりぴりと張り詰めていて、今は私にも居心地が悪い。とても。
 自分の部屋なのに帰りたくないと思ってしまう。実際に部屋を借りている私が帰らずに、勉強をするために大学の図書館を利用する。学生に開放されている自習室も使う。
 なるべく一緒になる時間を減らそうとする以外に、一緒になる時間にも別の事に集中できるようにと、図書館から本を借りてくる。結局は、満足に読めもしないけれど。
 とにかく、うんざりしている。
 私の心境を表すのにぴったりの言葉はこれだろう。
 いくら惹かれていても、あんな態度ばかり取られては、同じ空間に収まっているなんて耐えられなくなってきてしまう。元の、一人で過ごす時間が恋しいと思うのも当然かもしれない。
 それとも、惹かれているからこそ、今のように蔑ろにされている現状が許せないのだろうか。
 本の内容が頭に入ることもなく、ノートには意味のない文字とも絵ともつかないものが無駄に書き記されていくばかりだった。
 こんな自分は嫌だ。
 こんな生活も。
 早く春が来ればいいのに。暦の上だけでなく、花が咲き、気温が上がり、雪が降らない春が。

「高野さん」
「はい?」
 声をかけられて振り返ると、同じ学部の女の子が立っていた。まだ昼間のはずなのに外は薄暗くなっていて、図書館内にはいつの間にか電灯が点いている。
「帰らなくて大丈夫なの?」
 訊ねられた言葉の意味がわからなくて返事をしないでいると、彼女は窓を指差した。
「すごい雪だよ」
 つられて見た窓の外は、雪が斜めに降り注ぎ、既に白く染められている景色が広がっていた。
「本当、すごい」
 それしか言葉が浮かばない。珍しい雪。でも、それはこの地域だからで、私が生まれ育った所では、それほど珍しいわけではなかった。それは言わなくてもいいことだから、黙っておく。
「大丈夫?」
「ありがとう、大丈夫。……でも、図書館はもう閉めるのかな?」
「ううん、いつもどおり開けておくって。私はそろそろ帰らないと電車が止まっちゃいそうだから、行くね」
 それほど親しく付き合いのある子ではなかったけれど、親切に声をかけてくれた。
 普段なら、そのことにこれほど嬉しい気持ちにはならなかっただろう。今は、弱っているから。邪魔にされて苛立ってうんざりして、ささくれだっていた。
 こんなことじゃいけない。
 最初からわかっていたことなんだから、有坂がどれだけ苛々して私につっかかってきても、適当にさらりと流してしまわないと。
 深入りなんかしない。春にはいなくなる相手だ。
 降る雪を眺めて、もう少しバイトを増やせば、たまには里帰りできるだろうかと考えた。そうするには課題や学びたいことが多すぎる。
 帰らないと決めて出てきた。それでも時々、とても淋しくなる。
 私は有坂のことを欲しいと望む感情を掻き立てられたけれど、日常のふとした瞬間にどうしても、どうしようもなく感じてしまう淋しさに、有坂はうまく滑り込んできた。本当の所は、それだけのことなのかもしれない。
 雪は止まない。それでも、膝下まで雪で埋まるほどには積もらない。足首までも雪は届かないだろう。
 手元の本に目をやって、そこで初めて、ああ、こんなタイトルの本を読んでいたんだ、と思った。
 しばらくぱらぱらとページをめくる。さっきまでは本に全く集中できなかったけれど、今は、本の内容が少しずつ頭に染み込んでいく。
 図書館が閉まる時間までは、ゆっくりと本を読もう。一度そう意識した後はもう、本に集中していた。

 本を読み終えたところで窓の外を見ると、もうかなり暗くなっていた。
 閉館時間が五時だから、と考えながら手首の腕時計に目をやる。十五分前に一度アナウンスが流れる。その直前だった。
 本を手に立ち上がると、多分この辺りから持ち出したはずだと、書架を辿る。分類ラベルで確認した上で、本を元あった場所に戻す。
 今日も有坂は苛立っているかもしれない。それでも私の部屋なんだし、文句があるなら出て行けば?と言ってやろう。それで本当に出て行ったとしても、出て行く時期が、春か、春になる前かの違いでしかない。
 どうせ、私のものにはならない。それでいい。それに、私は本当に有坂を欲しいと思っているわけではないのかもしれない。
 図書館を出て、正門の方へ歩いていく間も、雪は降り続いていた。傘がないからそのままで歩く。すれ違う人影はない。辺りには人があまりいない。
 駅に着く頃には頭も真っ白になっているだろうか。急いでいるわけではないし、ゆっくり帰ればいい。どうでもいいことをぼんやりと考えながら、コートのボタンを留める。
 雪が体温で溶けて、額を滴り落ちていく。眼鏡に当たった雪も緩んで、振り払えば取れるということもない。
 どうせ視界があまりクリアではないのなら、と眼鏡を外した。それから正門を通り抜ける。
 眼鏡を外したせいで、気づけなかった。
 正門の前に差し掛かったところで、私の腕をぐいっと強く引いてきたのが誰なのか。
 驚いた。悲鳴が喉までせり上がってきた。でもうまく口からは吐き出せず、ひゅっと小さく息をつけただけだった。
「俺、俺」
 私の驚きように、慌てて繰り返す、腕を掴んだままの相手。
「……有坂?」
 眼鏡をしていないので、見えない。ぎゅっと目を細めて、何となくそれらしく見える気がする程度。
「そう、冬嗣くん」
 ここ最近の苛立った様子は、声からは感じられない。
「最近よく本を借りてくるみたいだから、今日もここかと思って」
 本の背表紙には大学の名前の入ったラベルが貼られている。それを見れば、私がどこで時間を潰しているのかなんて、簡単に想像がつくだろう。私はお金をかけてまでどこかで時間を潰したりはしない。それは、短い期間でも一緒に過ごしていれば、よくわかることだとも思う。
「傘、ないでしょ」
 朝持って出なかったんだから、当然今も持っていない。
「だからって、何でこんなとこにいるの」
「図書館の閉館は、五時でしょ」
 本の裏表紙をめくれば、図書館の場所と開館時間のスタンプが押されている。
「五時頃ここにいれば捕まえられると思った」
 有坂がそこまで気がついても、別に不思議じゃない。気がつくこと自体は、別に。
 私の居場所を推測しようとしたことと、傘を持って迎えに来て、ここで待っていた事は、理由がわからない。もうすぐ試験で大事な時期だ。苛々しながらも必死で勉強しているくらいだから、他の事に時間を割く余裕はないと思ってた。
「……今日さ、どうしても、鍋食べたいんだよ」
 何で、と口に出す代わりに、じっと見つめた。見つめたといっても、眼鏡を外したのでよく見えない。実質、宙を睨んでいるようなもんだった。それでも、有坂は白状するって感じでそう言った。
「……何鍋?」
「何でもいい、とにかくネギと白菜いっぱい入れて」
「肉も魚も、予算的に厳しいんだけど」
「それは、ちょっとでいいから」
 有坂が、どうしても鍋が食べたいので私を迎えに来たんだとは、完全に信用することはできなかった。
 喧嘩した後に、少しばかり素直じゃない態度で仲直りを試みるような。そんな感じがした。
「……ほんとに、ちょっとだからね」
「うん」
 苛々は治まったんだろうか。今は機嫌がいいんだろうか。
 とりあえず、今夜は鍋。寒いから丁度いい。
 そういうことにしておこう。
「叡子さん」
「何」
「もっと寄ってくれないと、雪避けられないよ」
 有坂が私の方に傘を傾けてくる。色と大きさからして、私の傘じゃない。
「別に平気。うちの地元なんかこんなもんじゃないのよ」
「そんなに雪降るとこなの?」
「膝下までとかだったら、しょっちゅう積もるし」
 傘は大きいけれど、一本しかないから、雪に触れないように必然的に距離が狭まって、ぴったりとくっつくような感じになる。
「じゃあ、長靴履くんだ」
「ブーツ。踵とか靴底にちゃんと滑り留めのついてるやつ。ついてないのなんか売ってないんだ」
「そうなんだ」
「そうなの。田舎だから、おしゃれなのなんか売ってないし」
 楽しく世間話をして、私にしては会話が弾んでいたかもしれないけれど、そこで私は黙った。
「手袋ぐらいしなよ」
 その言葉の前に、有坂の手が私の手をしっかりと握ったから。
 待っていたにしては冷えていない手だった。大きくて骨ばっていて、柔らかいわけではないのに、暖かくて触り心地のいい手。
「……手袋って、はめると何だか指とかむずむずするような、変な感覚ない?」
 触れた手の感触に意識が集中するのを何とか避けようと、とにかく喋ろうと思った。
「手袋、苦手なの?」
「え?ああ、そうかもしれない。とりあえず持ってないよ。使わないし。だから別に平気、なくても」
 このままずっと、離したくなくなる、手。
「ないんなら、離さない」
 有坂がどんな顔をしてその台詞を言ったのか、私にはわからなかった。
「こんなに冷えるんなら、離さない」
 駅に着いて切符を買う間も、改札を通る時も、電車に乗ってからも、もう手が暖かさを取り戻した後も、有坂は私の手をずっと握っていた。
 平然と、何でもないことのように、有坂にはその台詞が言えるだろうし、手を握れるだろう。
 追い出されては困るから、私の機嫌を取る為に、ほんの少しくらいは、苛立ちを隠すことも。多分、出来るんだと思う。
 迎えに来たことも、こうして手を離さないことも、私の感情を揺さぶる為になら、難なくやってのけるはず。
 頭ではちゃんとそのことがわかっている。
 今がまだ冬だから。
 だから今こういう状況にあるんだということも、ちゃんと。
 わかってる。
 深入りは、していない。
 だけど、やっぱり。
 春はもう少し遠い方がいいかもしれない。雪も、もう少し降ってもいいかもしれない。


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