□ 冬季限定 9
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冬季限定 index
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三月中旬

 雨季と乾季だけの国なら、春は来ないんだろうか。
 ニュースで映し出される亜熱帯の国の映像と地図。眺めて真っ先にそんなことが頭に浮かぶ。
 それじゃ、駄目なのに。

 バイトに来て欲しいと電話があった。短い期間でいいので、サポートで入ってくれないか。そう頼み込まれる。断った。でも向こうも簡単には引き下がらない。
 集中できないとわかっているので、引き受ける気は正直言ってない。こんな状態で引き受けたところで、何の役にも立てないだろう。ほんの少しだけしか一緒に仕事もしてない仕事中の有坂のことばかり思い出して、仕事なんか手につかないとわかってる。
 だから何度も断って、納得して折れてもらうしかなかった。
「結構手強いんだもんなあ、高野さんってば」
 苦笑いされて、ようやく開放してもらえた。
 そんなわけない。私が手強いはずがない。本当に手強いというなら、あっさりと有坂に陥落したりするはずがなかったし、有坂を手放さずにもいられる方法を実行に移せたかもしれない。
 そんなの、今更だ。それに、泣いて縋ったりみっともなく引き止めたりなんて、きっと考えるだけで実行に移すことはできなかった。そんな風にして引き止めて留まってくれたとしても何の意味もないことくらい、最初からわかってた。
 十一月の初旬。スタッフルームで始めて、仕事を離れた有坂と言葉を交わした。あの時にもう、私が今こうなっていることは決まっていたのだ。
 好きになる前から、結末が用意されてる恋だった。

 日に日に暖かくなる。コートを着なくても平気になる。室内で着ているものもセーターではなくなった。その内桜が咲く。この国には春があって、今それは次第に色を強め、主張を増す。
 窓からの日光だけで、室内はあまり明るくない。もうしばらくしたら沈む太陽。それでももう、先週よりも確実に暖かい。
 気温が上がるのと反比例して、私の心は冷えていく。
 バイトをしていないから時間には余裕がある。だからって何もする気になれない。ごろごろとしているわけではないけれど、家から出ることもあまりなく、テレビに見入るわけでもない。ぱらぱらと、内容を追わずにただ手がページを繰るだけの、参考書。私が受験の時に使ったものだ。
 本がそんなに入らない本棚。奥行きはまあまあある。それを利用して、頻繁に読まない本は奥に、時々は取り出す本は手前に、そういう収納方法を取っている。奥にあったはずの本が手前にきているのは、私が動かしたせいじゃない。
 有坂だ。
 そう思った瞬間、参考書の内容をしっかりと目で追い始めた。私が定規とマーカーで引いた線、書き加えた説明や要点。それに混じって、違うペンと違う文字で書き込みがされている箇所がいくつもある。
 文字を見ただけで目が潤んでくるのがわかる。馬鹿みたいだ。こんな恋をするのは馬鹿だと思ってた。釣り合わない相手に決まってるとわかってもいた。それでも止められなかった。今も止められない。
 こうやってこれからも、ささやかなことで思い出しては泣くんだろうか、私は。
「馬鹿みたい」
 声に出して言ってみた。震えて、完全に涙声だ。本当に馬鹿みたい。
 がちゃりと音がして、音のした方に顔を向ける。玄関のドアの方。でも視界はぼやけてる。
 ほやけてるのは視界だけじゃなかった。頭もかなりぼやけてたらしい。鍵をかけてなかったことを思い出したのはその時、やっと。
 開く前に駆け寄って鍵をかけてドアチェーンもかけて、とやるにはもう遅かった。
 新聞の集金とか何かのセールスとかが勝手にドアを開けて踏み入れて来たりすることもあるらしい。無用心にも程がある。馬鹿すぎる。緊張のせいか、きゅうっと引き絞られるように苦しくなる。
 焦りが溢れる。それから、涙が溢れる。
 軽く音を立てて開いたドア。その向こうに立っている人影。ぼやけてくっきりとは見えない。しかもその人影は声を出さない。そして、突っ立ったままで玄関に踏み入れては来ない。
 瞬きをすると、また涙が零れる。凝れて減った分がまた溢れてくる。一向に確認できない。それどころか、動けもしない。
 どうせ見えないので、眼鏡を外した。また瞬きする。ぼんやりしたままの人影は、その位置から移動しない。誰なのかはっきりとはわからない。この人だといいのにということは強く思う。
 ふわりと、漂うかすかな香り。開いたドアから吹き込む風。
 人影が動いた。玄関に踏み込んで、もそもそ動いて、部屋に上がり込んできた。そしてドアがばたんと閉じて、風が止んだ。
 聞き覚えのある足音が近づいてくる。それでも視界はぼやけたままで、溢れる涙に合わせて揺らぐ。
 かすかな香りは、シャンプーのものだ。同じものを使ってるから気づいた。
 近づいてきた人影に、恐怖も焦りも感じることはなかった。そうだったらいいと思うことが現実に起きていることは、はっきり見えなくても気づくことができたから。
 すぐ側まで来て、すっと屈んだ。
 伸ばされた手がわずかな間頬に触れてくる。私はその間にもはっきり見ようと瞬きをしては溢れる涙に遮られていた。
 布の感触が目元に触れて、目を被った。ごしごしとこするように何度も目の辺りを往復した。
 それがスーツのジャケットの袖だって気づいたのは、瞬きしても涙がこぼれなくなった後のこと。
 その袖、指、腕と視線を移動させていく。まだ少しだけ滲むように見える、緩められたネクタイ。一番上のボタンは外されてるワイシャツから覗く喉元。顎。唇。
 そこで止めた。目を合わせるのが恐い気がして、それ以上は視線を上げられなかった。
 ゆっくりと瞬きをひとつ。
 目の前の人物は消え去ったりはしなかった。そのことに安堵した。
 有坂は今、私の目の前に、確かに存在していた。

「何してんの」
 有坂の声は、記憶の中にあるどれとも感じが違ってた。怒ってるみたいに聞こえる。
 声を出して答えようとして、喉からこみ上げてくる何かを感じるのに、何と言っていいのかわからず、結局何も言えないまま黙った。
 まだ視線を上げられない。上げられないどころか、俯く。
 目の前に現れたら、穴が開くほど見て、磨り減るくらい触ってやろうとか思ってた。怒鳴りつけるかもしれないとも思ったし、本当に目の前にいるんだと確認することしかできないとも思った。
 そんなことは出来なかった。
 少しひりひりする目の回り。赤くなっていそうだし、ほんの少しだけど熱っぽさも感じる。その顔を、怒ってるみたいな有坂に真っ直ぐ向けることに、戸惑いがあった。
「なあ、何?だんまりなわけ?無視?」
 鋭い、きつい口調だ。
 別れが恐かったり、痛みが恐かったりはしたけど、有坂自体を恐いと思ったことは今までなかった。
 有坂のことを恐いと思ったのは、これが初めてだった。
「あんたでも泣いたりするんだ」
 声に温度はないはずだ。それなのに、とても冷たく感じる。震えが走る。部屋に入ってきてから発したどの声よりも格段に冷たい。その冷たさに、顔を上げる。有坂が私を名字でも名前でも呼ばなかったことに違和感を覚えることができたのはその後。
 途端、鋭い視線にぶつかる。怒っているのか、苛立っているのか、呆れているのか、蔑んでいるのか。見たことのない冷たさに、また体が震える。
「何で泣いてんのか訊いてもいい?」
 問いに、息を飲む。知らなくて訊いているという風ではないとすぐにわかった。そんなことわかりきってるけど、自分の口でちゃんと申し開きしてみな。そう言われてるみたいだと思った。余計に答えられない。
「一人でなら泣けるんだ」
 手首を掴んでくる、強い力。へし折るとでも思ってそうなくらい強くて、痛みに思わず手を引きかける。それを、有坂は更に力を加えて留めた。顔をしかめてしまわないように抑えることに意識を集中するけれど、痛む。
「俺がいると、痛いとか言うのも飲みこんじまうわけか」
 実験終了、とでも言いたげだ。言葉と共に、掴まれた手を解かれ、顔を近づけて覗き込まれた。
「俺に感情見せるの、そんなに嫌なんだ?」
 口元を歪めるだけの笑み。目は笑ってない。ただ、真剣だということはわかる。ふざけてなどいない。空気が、痛いくらいに張り詰めている。
「黙ってないで何とか言えば?」
 空気中に漂う緊張感が、私を痺れさせてくる。何かを言おうとして、自分でも何を言おうとしたのかわかっていなくて、でも結局何も言えないままだった。私を床に倒し、有坂が覆い被さってくる。そのことに何かしらの反を示す前に、有坂が私の口を塞いだ。手で。
「本当に無反応なのか実は隠してんのか、わかんなくなる。嫌なら嫌って言えは止めるのに、諦めたみたいな反応しか返ってこないし。どうしたいのあんたは」
 身をよじる。何となく、有坂がこの先やりそうなことを想像できた。私の口を塞いでいるのと逆の手で乱暴にネクタイを緩め、ジャケットのボタンを外す。その間も逃れようと体を動かすのに、有坂はしっかり私にのしかかっているし、口を塞ぐために私に押し付けられている手が、私を床に縫いつけているから、動けない。
「最初っからそうだ。すげえ嫌がってたけど、俺が転がり込んでくりゃきつい言葉ばっかり投げつけてくるくせに、我侭は聞き入れて世話は焼く。こっちが荒れてても手繋いでも怒ってこない。何も言わずに立ち去られてもなーんも言わない。何か言いたそうな目で見るくせに、結局何も言わない。いちいち反応示すのが馬鹿らしいとでも思ってんだろ。泣く程嫌だったとか泣く程淋しかったとか、何とか言えよ」
 言えよ、と言うくせに、私の口から手は退けない。じっと目を見てくる。どうしていいかわからなくなる。どうしたいのかも。瞬きをするのも惜しいと、ただ見つめ返す。じわじわと、こみ上げてくる。今瞬きをすれば、零れ落ちていきそう。
 有坂が、目を閉じた。ぎゅっと。目を反らす代わり、だろうか。目を閉じたまま、ジャケットを脱ぎ捨て、ネクタイを解ききる。ワイシャツのボタンをまたひとつ外すと、見覚えのあるTシャツが見えた。
「反応見るなら、結局これしか手がない」
 溜息と共に零れた呟きは、本当に小さな声だった。静まり返った音のない室内でなければ聞き逃しそうな程。
「結局これだけだったよな。あんたが俺に言われなくても自主的に何かやってくれたことってさ」
 笑っているのに、有坂は苦しそうに見える。私のブラウスのボタンに手をかけて、引き千切りそうな勢いで外す。『これ』の指す意味を理解すれば、さっき想像したばかりの有坂がこの先やりそうなことが正しかったということも理解できる。
「俺のいないとこで、俺にわかんないとこで、どう思ってようと俺にはわかんない。あんたは俺にどうされたかったの。……とっとと出てって欲しかった?そうなら何で何も言わないんだ?」
 ブラウスの下の素肌に触れる手は、ひんやりと冷たい。それなのに汗ばんでいて、それから、少しだけ震えてた。
「あんたはどうしたいの」
 鎖骨から首筋へと指を滑らせている有坂は、もう笑っていなかった。
 どうせこれが最後だというのなら、言いたいことを思いきりぶつけてもいいのかもしれない。どう思われようと、今更だ。つまらない、程度の低い女が、自分になびかないことに腹を立てているだけなのだとしても、私の言うことがその腹立ちを解消することだけにしか働かないのだとしても。どうせ結果は同じでも。
 それでも、何と言って切り出せばいいのか、私にはわからない。
「頼むから何か喋って。風邪で声が出ないとかいうオチじゃねえんだろ。退けとか放せとかだけでもいいから、俺に望んでること聞かして」
 請われると拒めない。
 それに、退いてほしいとも放してほしいとも思ってない。有坂に望んでることは、他にいっぱいある。
 何で今ここにいるのか、何でスーツなのか、教えて欲しい。
 磨り減るくらい触りたい。
 冬限定とか言ったの、取り消してほしい。
 とりあえず、怒ってるの恐いから、今すぐやめてほしい。
 でも、真っ先にそうして欲しいと望んでいるのは。
「……あんたって呼ぶの、やめてほしい」
 掠れて、涙声で、変な震え方をしているけれど、初めて、本当に望んでいることを口に出して言えた。
 春めいて暖かい室内は静かだ。
 下から見上げる有坂の表情は、窓からの光が薄らいでいることも手伝って、陰影が深くてよく見えない。私の言葉で有坂の表情が変化したのかしなかったのか、私にはわからなかった。


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