□ 冬季限定 5
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一月下旬

 最近の有坂はそればかり口にする。
「お祝いしてよ」
 何度も言う。そして今もまた言われている。
 センター試験の成績が良かったとか何とか、多分そんな理由だと思う。
 多分とか思うとかつけてしまうのは、私には関係のないことだから、と聞かないから。
 有坂が話したそうにしているのはわかるけど、私は、無関係だと無言の内に伝わるような態度や表情で、それを跳ね除ける。
 きりきりと、少しずつ引き絞られていくような痛み。
 タイムリミットと一緒に限界が近づいてくる。耐えきれないと思う程になるとは思ってなかった。
 明るい笑顔に他意はない。ただ嬉しい。希望の大学に入れる可能性が増したことが純粋に嬉しい。有坂の気持ちを測り違えてはいない。
「お祝いねえ……ケーキとか?また私が焼くの?」
「小っちゃい、二段重ねの苺のケーキ」
 駅前にあるケーキ屋のショウウィンドウで見たもののことだと、すぐにわかった。並んで、手を繋いで歩いている時に見たケーキ。
 雪の降らない日も、あまり冷え込まない日も、並んで歩く時は私の手に有坂の手が触れてきて、最初は遠慮がちに、最後には当然であるかのように握る。
 振り解く理由もなく、むしろそうしていたい気持ちが膨らんで、そのままにしておく。気持ちには気づかれたくなくて、指には力を加えない。ただ握られているだけの状態を保つ。有坂が離れていきたければ離れていけばいいのよ、と暗に言ってるみたいに。
 有坂は何も言わず、時折手を握り直してくる。離れそうで離れていかない。
 そんな中で見たケーキを、食べたいと有坂が望む。
 幸せだったんだろうと思う。有坂と手を繋いでいられた時間は。
 有坂にとってどうだったかは知らない。あのケーキはなかなかに値が張る。それに、二人しかいないのにケーキを丸ごとなんて、とも思う。それでも、私は了承した。有坂も少し驚いてたけど、嬉しそうに笑った。
「いっつも歩いてる時見るだろ、ずっと食ってみたかったんだよ」
 子供みたいな笑顔だと思った。私はそんな風に笑わない。笑えないのか笑わないのか、自分ではわからない。とにかく、そんな表情は見せない。それでも、その時私も、確かに嬉しかった。同じ思いを、私も確かに抱いていたから。
 今だけ、今だけ、と繰り返す。わかってる。恋に落ちているのは私だけ。有坂は、遥か上の高みからそれを楽しげに眺めているだけに過ぎない。冬だけの約束。春が来る前に彼は消える。
 だから、今だけ。
 今だけでもいいから欲しい。
 そう思うようになっていた。

「お祝いなのに酒はないの?」
 私より背の高い未成年が、同じ未成年の私にそんなことを言ってくる。だから、「予算オーバー」と返す。
 買い物を済ませて既に荷物を抱えてる。お金を払う私の手は空いているが、そうでない有坂の両手は塞がっている。
「駄目。飲まないものは買わない。ケーキだけでも充分贅沢なんだから」
 駅前のケーキ屋が知る人ぞ知る店だなんて知らなかったし、小さいケーキ一つ買うだけでそんなにお金がかかるなんて思ってもなかった。
 その分おかずが一品減って質素になってるのに、私が飲みもしないアルコールなんか、買う必要はない。突っぱねたら、渋々頷いて有坂は私に着いてきた。
 有坂の両手は塞がったまま。私は財布をコートのポケットに仕舞って、今は両手とも空いている。有坂が私の手をちらりと見た。
「叡子さあん」
「伸ばしても可愛くないから止めて」
 何かをねだる声だと直感的に思った。手が空いてそうだね、袋一つ持ちたくない?そんな風に話しかけられる前に、冷たく切り返しておこうと思って言った言葉だった。
 でも、その後何も言われなかった。
 右手を、暖かくて大きな手が、しっかりと握ってきた。
 両手が塞がってたはずなのにどうやって、と有坂の手を見ると、右手で二つの袋を器用に持っていた。重いはずの袋を片手で二個持っているのに、きつそうな顔はしてない。
「別に、これくらい重くないって」
 私の視線に気づいて、有坂が言ってのける。言葉のとおり、無理をしている様子もなく、本当に難なくこなしている感じ。
 部屋に帰りつくまでの十分弱。それだけの時間。重い荷物を抱えていれば長いと感じる時間。
「一つ袋持つから」
 握られた右手も、空いたままの左手も、袋を一つ受け取るために差し出そうとして、左手だけしか差し出せなかった。
 有坂は、私の右手を離さない。
「いい。別に重くない」
「違うって。ケーキ、崩れるから」
 そう言えば持たせてくれるかと思ったけど、甘かったらしい。
「絶対崩さないから」
 私の左手をかわして、私の右手を強く握ってくる。それ以上言うな、と釘を刺されたみたいな。
 それ以上どうにもできないまま、部屋に着いた。思ったより早く着いた。もっと繋いでいたかったと思ってしまった。春までに、もう後どのくらい、こうして手を繋いだり、触れたりできるんだろうと考えてしまった。
 触れるのが手だけでは足りないと、もう思い始めていた。足りないと感じ始める速度が増していく。こんなことじゃ、春が来たらどうなってしまうんだろう。

 ケーキを、有坂は残さず食べた。ほとんど一人で食べてしまったと言ってもいい。
「こんなに小さいと、結構すぐなくなるよね」
 ケーキの大きさ以外にも原因がある、と思ったけど、黙っておく。どこにそんなに入るんだろう、と思う程の量を、食べ尽くす食欲。食べる量を競っても意味がないことはわかっているけど、本当によく食べる。
「美味しいものはついつい食べ過ぎてしまう」
 言い訳っぽく言って微笑む有坂。満足げだ。食べるだけ食べていればいい有坂が満足するのは当たり前だ。私にはここから更に後片付けが待っている。ふう、と一息ついて、自分に勢いをつけた。このままぐたーっとだらけて寝てしまいたいような、食後の気だるさを追い払う為に。
 積み重ねた食器を持って流しに運ぶ。流しの方に向き直る時、ちらっと、有坂が立ち上がったのが見えた。残りの食器を運ぶ為に振り返ると、有坂が運んできて流しに置いた。
「何、どしたの」
 フォーク一本運ぶのを手伝ってくれたこともない有坂が、てきぱきと食器を運んできて、テーブルを布巾で丁寧に拭く。それが終わると私の隣に立った。 「あれだけ食ったら、さすがに運動しないとまずい気がする」
「……そりゃあ、ねえ。ケーキだけでどれだけのカロリーになるやら」
 私の洗った食器を受け取って、食器拭き用の布巾で拭いていく。乾燥機とか食器洗い機とか、ないと不便だね、なんて言いながら。
 別に不便じゃないよ、と言い返そうかと思ったけど、やめた。その言葉の勢いで、余計なことまで言ってしまいそうだから。
 そういうのがないから、こうして手伝ってもらえるんだし。
 そんなことを。
 ……そんな、余計なことを。

 これで全部、と、最後に自分の手をゆすぐ。タオルで手を拭いて、拭かれて積み上げられた食器を戸棚に片付ける。すぐ側にいる存在が私を落ち着かなくさせるけど、それは表に出して見せてはいけない気持ちだ。
 同じ屋根の下で、いくら部屋の両隅に離れているとはいえ、毎日眠る。そのことに、慣れたふり。全く意識していないふり。好きだなんて思ってないふり。触れたいなんて、望んでいない、ふり。早く春がきてしまえばいいと思う時はこんな時。もう隠さなくてすむようになる。
 どうせ叶わないなら、今すぐに隠すのをやめてしまおうか。
 出来もしないことを考えた。現実にならない夢を見ていた。
 そう、思ってた。
 有坂が急に後ろから抱き締めてくるまでは。
「お祝いが、欲しいな」
 熱っぽい声だと思った。風邪をひいて熱が出て、とかそういう類のものではないことは勿論わかってる。その熱が、何を示すものなのかも。経験が乏しくても、それくらいは考えつく。
「足りないの?」
 できるだけ毅然とした態度を取ろうとした。何とも思っていないのだから、震えたりはしない。言い聞かせて。
「叡子さんから、お祝いが欲しい」
 こんな風にいつも、誰かの心を揺さぶるんだろうか、有坂は。
「もう何にもないよ。予算もないし」
「予算はなくてもいいものが欲しい」
 後ろから私を抱く、逞しいとは思えなかった腕。思いがけず力は強く、身動きができない。肩に触れていた手が、緩やかに滑り降りていく。
 そこまでする必要があるだろうか。部屋に住まわせたし、家事全般の面倒も見た。たまには勉強も教えた。これ以上自分を投げ出す必要が、私にはあるだろうか。
「食後の運動なら、散歩でもして頭冷やしてきて」
 でき得る限り、冷たい声を出したつもりだった。あんたの体の欲求を満たすためだけのお相手をする気はない。そんな思いを込めるように。
 有坂は無言だった。無言のまま私の眼鏡を奪い取った。
「見えないから、返して」
 聞き届けられないだろうとわかっていながら懇願するのは滑稽だ。そして、当たり前のように、耳元で、嫌だと囁かれる。
 振り解いて体勢を立て直して、眼鏡を取り返す。そのつもりで離れようとした私を、一瞬離して、その後しっかりと捕まえる。両頬に添えられた手が、頭をがっちりと固定してしまう。
「さすがにこれくらい近づけば見えるだろ」
 すぐ目の前に有坂の目がある。
「離して」
 離して欲しい気持ちと、離して欲しくない気持ちが、大きく揺れてる。
「欲しいものもらったら、離す」
 乱暴な、と、初めてでも思った。歯が唇にぶつかって、切れたような痛みがあった。実際には血の味がしないから切れてはいないだろう。どこかで冷静にそんなことを思っている自分がいる。ひどいキスだ、と。
「もういいでしょう、離して」
 唇がまだ触れ合っているのに無理矢理喋ってみたら、思ったより明瞭な音を形作った。
「まだだ」
 今度はもう、言葉を紡ぐ隙は与えられなかった。深いキスは、意味のある言葉を口に出すことができない状況を作る。
 それでもまだ、腕から逃れようと体には力が入ったままで、無駄だろう抵抗を止めることができない。
「本当に欲しいのはこれだけなんだ」
 引き摺るように、台所から離れた。部屋の奥へと。壁に押しつけられて、逃げ道がなくなる。
「最初から、欲しいのはこれだけだった」
 掠れた声。汗ばんだ手のひら。いろんなものが、余計なことを頭に思い描くことができないように私を麻痺させていく。
 そんなはずはない。そう訴えて警鐘を鳴らすべき冷静な部分は、もう頭の中に残っていない。
 アルコールに酔うと、こんな感じだろうか。ふとそんなことを思った。普段なら絶対にそうはしない、拒み切るはずのことを、受け入れようとしつつある。
 壁にもたれているまま、力が抜けていく。ずるずると滑り、床にへたり込む。逃がさないとでもいうかのように、有坂が身を屈める。
「叡子」
 震える。そんな風に呼ばないでと、言おうとして声が出ない。
「俺のことも呼んで、名前で」
 触れている手。頬に、首元に、肩に。ものすごい混乱を呼び寄せる熱。何も考えられない。
 自分勝手で、私を好きでもなくて、もう少ししたらいなくなってしまう奴。そんなことももう、考えられない。これが常套手段なのかと悔しく思う気持ちも、今はもう手の届かない遠くへと押し流されてしまった。
「冬嗣」
 震えて掠れて、あまりにも小さな声は、有坂に届かなければよかったのかもしれない。
 暖かい、柔らかい、笑顔。
 それが、呼びかけが確かに有坂に届いたことを私に伝えた。
 それが、わずかに残る抵抗する気持ちを、完全に拭い去った。


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