□ 冬季限定 6
二月上旬
目が覚めてすぐに、自分の置かれた状況を把握した。
後悔は、ない。
だけど、痛む。心も体も。
引き裂かれるように痛むものだという知識のとおりだった。
自分の身に実際に起きてみないとわからないことがある。そういう意味では、未知の分野の経験を一つ深めたと言える。冷めた感情がそんなことを頭に思い描かせる。
それと同時に、思い知っていた。私は、昨日までとは違うものになってしまった。
そんなこと、あるはずがないと思ってた。たった一回、男に体を許すくらいで自分の何かが変わるはずなんかない、有り得ない、自分はそんなに弱く揺らいだ存在なんかじゃないと。
押し隠しているつもりだった気持ちは、後から後から溢れ出た。
今もまだ塞がらないまま血を噴き出してる傷の持つ熱を感じながら、裂けた傷をどうやったら塞げるのかが気になった。
傷を消すことはできない。もう、傷のなかった自分には戻らない。
自分の名前を呼ぶ声があんなにも甘く響くなんて知らなかった私には、もう戻らない。
顔を、まっすぐに見ることができなかった。
だから、眠ってる有坂の腕から、そっと抜け出した。起こさないように細心の注意を払う。
カーテンの隙間から差し込む光で、もう朝が来ていることはわかっていたから、どうせもう起きなくてはいけないのだ。
終わったことだと思わないと。なかったことだとは思えないならせめて、そう思わないと。
体の中心がきしむような、引きつれて痛むような感覚を無視して、手早く服を身に着けた。コートも羽織ってそのまま部屋を出た。早朝特有の色の光と景色、冷えた空気。思わず深呼吸する。
よく知らない、知りたいとも思わなかったはずの相手を好きになった。あっさりと簡単に私は落ちた。そのことは有坂の狙いでも、有坂に責任はない。
最初から、冬季限定でと言った。彼は私を好きだなんて一度も言わなかった。部屋に住まわせて欲しいと言われただけ。昨夜も、ただ欲しいと言われただけだ。それを拒めなかった私に責任がある。
有坂は自分に正直に行動しただけに過ぎない。
そして、私も。
底にある思いは異なっていても、確かにあの時、私達は同じ思いを抱いていた。
欲しい、と、ただそれだけを。
叶わない恋どころか、誰かを好きになること自体、予想外だった。好きになってくれと頼まれたわけでもないのに。
この恋は始まる前から終わっているようなものだとわかっていたのに。
それでも、後悔はない。そのことが奇妙だと思ったけれど、当たり前だとわかっていた。
欲しいものを、ほんの一時であっても、私は確かに手に入れた。
明かりを消した部屋で体を、遮るものもなく触れ合わせていたあの時間だけは、有坂は私のものだった。
そのことに喜びを感じたり、どうしようもなく苦しくなったり。
相反する感情が同時に存在して成り立っている。本当に奇妙だ。
今も、泣きたいのか笑いたいのかわからない。
ただひどく喉が渇いているのは確かで、普段は絶対に買わないホットの緑茶の缶飲料を買って、すっかり冷たくなった指先を暖めて、それから喉を潤した。
まだ乾いてる。もっと欲しい。もう望んではいけない。もう触れられない。無茶苦茶だ。自分でも説明できない。
私は、本当に引き裂かれてしまった。
帰れないまま、ふらふらと河川敷まで歩いた。
探しに来るはずはない。芝生の上に座り込んだ。
それでも、もしかしたらと思ってしまう自分は嫌だった。
誰かを好きだとかどうとか、そんなことに時間を費やすなんて馬鹿だ、勉強は今しか出来ない。そう思っていた私は、今はもういない。
「一回、家に帰ろうと思う」
有坂の声が真剣だった。
あれ以来、変わってしまった。私は今までどおりの態度なんか取れなくなってしまっていたし、有坂ももう、それまでとは違ってた。私の態度のせいで、有坂も態度を変えざるを得なかったのかもしれない。
平たく言えば、お互いにぎこちなかった。ぎくしゃくしてた。元々打ち解けあった雰囲気などなかったけれど、今までで一番ひどい。バイトで一緒になった時ですらここまでひどくはなかった。
私はもう、隠せなくなってしまっていた。いなくなる有坂を引き止める術を探しながら無駄だとわかっている状態で落ち着いていられるはずもなく、落ち着いていられない、これっぽっちも冷静でなくなってしまった自分を、有坂にわからせないように振る舞うことは、どうやっても無理だった。
「いい加減俺が本気だってことも、解らせられたと思う」
受験に対する有坂の心構えを、有坂の家族が解っただろうという話だ。頭でわかっているのに、ほんのわずかな、瞬き一回の間だけ、有坂が私に本気で惹かれたからこうしてここにいたのだと、誤解した。
誤解、したかったのだ、私は。
もう嫌だ。こんな自分は嫌だ。でも、戻ることはないんだ。
「いい加減解ってもらえる時期かもね」
口にしながら、そんなことを思ってはいなかった。確信があるから有坂は帰るんだとわかっているのに、そんなことを思うわけがない。
もう、これで終わるんだってことも、ちゃんとわかってる。まだ冬は終わっていないと食い下がろうと、引き止めることはできないんだと。
あの時拒んでいたら、有坂はもう少しいてくれただろうか。
有坂にとってはこれが丁度いい引き際なんだ。
受験勉強に専念できる環境が欲しかっただけなんだから、女と気まずくなって鬱陶しくなったら出て行くのは当たり前だ。
そんなことを考えてしまう自分も、嫌でたまらない。
「お世話になりました」
その他人行儀な言い方も言葉も嫌だ。
もう彼が私の名前をあの夜みたいに呼んでくれないことが嫌だ。
もう触れられないのが、嫌だ。
でも、それを声に出して言ったりはしない。だから、言ってしまって、嫌がられたりはしない。
来た時より増えた荷物を抱えて、靴を履いた有坂が振り返る。
有坂は静かに微笑んだ。
その笑顔が、私に何も言えなくさせた。
ドアはゆっくりと、でも確実に閉まり、足音が遠ざかっていく。階段を降りていく音もやがて聞こえなくなった。しん、と静まり返った。
戻ってなど来ないとわかってるのに、足音が止まらないかと、もう一度足音が近づいてこないかと、期待を抱かずにはいられなかった。
それが有り得ないのは、有坂の笑顔を見た時にもうわかり切ってた。
笑顔を見て私は、バイトの時の営業スマイルみたい、と思ったのだ。
落ち着いて考えてみれば、望みなんか、元々なかったけど、この先も一切ない。
彼は何も、後に形が残るものは私には求めなかった。その事実だけで充分だ。
そんな奴を好きだなんて馬鹿馬鹿しい。
嫌いになって当然だ。
自分の感情のバランスが取れない。こんなにも小さなことで自分が壊れそうだ。その前に嫌いになって何が悪いの。嫌いにならなくちゃ。なるべきなんだ。
そんな風に自分の思いを操作しようとしてしまうことが、どうしようもなく痛みをもたらす。引き裂かれた痛みよりも何よりも。
あの朝でさえ泣けなかったのに。今は後から後から溢れ出てくる熱い液体を乱暴に手の甲で拭う。
手を払った拍子に、玄関の下駄箱のところに置いてあった傘を倒してしまった。
私のものじゃない色の、大型の傘。
彼がいた痕跡を今に伝える、唯一のもの。
有坂がこの傘を差して手を繋いだ時の暖かさを思うと、また涙がこぼれた。
声もなくただ涙を流す、そんな泣き方なんか知らなかった。大声を上げて煩く泣き喚く子供みたいな泣き方で泣いたのはもう随分昔。泣いて何かをねだっても手に入らないことを知ったから、もう泣かなくなった。
どうやったら泣き止むことができるのかなんて、もうとっくに忘れてしまった。
仕方なく、泣いたって有坂は戻ってこない、と思うことにした。
余計に涙が出た。
有坂がどこの大学を受けるのか、ちゃんと訊いたことはない。
どこに住んでいるのかは、バイト先で調べられなくもないと思うけど、理由を訊ねられるだろうし、簡単でもないはずだ。
どこの高校に通っていたかは、制服を覚えているから調べる道は残されている。学校がわかれば、年齢と名前がわかっているから探し出すのはそう難しくはないと思う。
でも、探したりするのは止めよう。向こうも困るだろう。
なかったことにはならないけれど、なかったことを装うことなら。少しずつ時間をかけて、自分を騙していく。繰り返し繰り返しそう考えていたら、それが本当のような錯覚を、ほんの一瞬でもできるようになることがあるかもしれない。その一瞬だけは、きっと痛みは感じない。
ただ涙を流すだけでこんなに疲れるものなのか、とつくづく思いながら、腫れてひりひりする目元を冷たい水で洗った。
水はまだ冷たい。風も冷たくて、花々が咲き乱れる温かな時期が来るにはまだ日数がかかる。
窓の外では、音もなく雪が降り始めていた。人が一人減っただけで、部屋の温度が下がってしまった気がする。寒いから、温かいお茶を淹れて飲もう。
もう訊かなくていい。「有坂も飲むの?」と。
暦の上ではもう春とか、三寒四温とか、少しずつ春めいてきたとか、そういう言葉とも今年は縁がなかったな、と考えて、聞く者のいない部屋で小さく笑った。もう笑うしかないというのが的確な表現になってしまうような笑いだと自分で思った。
私の冬は、さっき終わった。これからはもう春だ。
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