□ 冬季限定 8
三月上旬
桜はまだ咲かない。夜はまだ寒い。それでも、ここより雪の多い地元よりは暖かな気候に、緩やかに変化してきている。
その内ニュースなんかで、春一番が吹いた、とかいう報道もされるかもしれない。
三月なんだから、春めいてくるのは当たり前だ。
ただ私だけが、私の感情だけが、それについて行けない。
コンビニには今も、冬季限定の溶けやすいチョコレートのお菓子が並んでる。
あまり安価ではないから、たまに食べるだけにしようと思ってたのに、見かけるとつい買ってしまうようになった。
まだ冬なんだと、思い込む材料にするみたいに。
「高野さん?お久し振りです」
受話器を取ると、聞き覚えのある高くて可愛らしい印象の声が聞こえてきた。
バイトをしていた本屋のフロアチーフからの電話。電話に出るのは私だけだと知っているとわかる調子で、店を閉めてからかけてきているとわかる遅い時間に電話があるのがいつものパターン。大学が休みになる時期が近づいたり、人手が足りなくて困っている時なんかに、バイトしないかって誘いの電話をかけてくる。これが初めてじゃない。
「春休みのバイトの件ですか?」
どうせその話だろうし、とこちらから持ち出すと、そうなんだけどね、と本当に可愛い声で笑う。見た目はきりっとしていてお姉さんって感じの人なのに、声とのギャップは結構大きい。その話を本人に直接したら、あなたもでしょう、と返された。可愛らしく見えるのに、声が低めで大人っぽい、そう言われたのを覚えてる。どこからが本気でどこからが冗談なのかわからないから曖昧に笑って頷いておいたけれど。
「それもあるけど、ちょっとご報告をね」
仕事から離れると親しげに話しかけてくる人。年齢は、七つは離れてたと思うけど、そんなこと感じさせない。基本的に仕事以外では他のバイトとも挨拶以外の会話をしなかった私が、この人とは少しだけ仕事以外の会話もした。
ご報告、という言葉と声の響きが、ちょっとだけお仕事モードだと感じる。仕事に関係のある話だろうか。
「ご報告って?」
黙ってしまった相手に、話の続きを促す。
「有坂くんって覚えてるでしょ?秋頃にバイトにいた、背の高い子」
聞こえてきた名前に、息を飲んだ。
他人の口から聞く名前だけで、しかも一瞬で、こんなにも動揺できるものなのかと思う。緊張している時の、妙な息苦しさみたいな感覚に気づくと共に、急速に高まる心臓の鼓動を自覚する。
それから間もなく、どうしてこの人が私に有坂の名前を告げるのかと疑問を持つ。私と有坂の話は、極秘ではないにしてもおおっぴらに広めるものでもなかったから、私は誰にも教えなかった。この人は、私と有坂の間にあったことを何か知っているのだろうか。ものすごく重大な失敗をした後の、何とも言えない閉塞感、焦り。そんなものが私を満たしていく。
だから、その後に続いた言葉は意外なものだった。
「誕生日を教えてって言われたの」
まるで想像もしていない内容だった。
「誰のですか」
話の流れで行けば、有坂がチーフに誰の誕生日を訊いたのかは明白だ。敢えて口に出して訊き返したのは、確認せずにはいられなかったからだった。取り違えようのない、はっきりとした言葉で、聞きたかったのだ。
「有坂くんがね、高野さんの誕生日を教えて欲しいって、訊いてきたの」
耳から入ってきたはっきりとした言葉を、頭の中で何度も反芻した。
誕生日だけ教えた所で別に何にも悪さできないだろうからつい教えちゃったんだけど、了解も取らないでごめんねって謝らなきゃって気になって。
後に続いたチーフの言葉を聞きながらも、何度も何度も頭の中で反芻した。しつこく。
「それっていつの話ですか?」
何でそんなことを訊いたんでしょう?なんてチーフに訊いても仕方がないから、私はそう訊ねた。
「昨日の夕方。何か、電話が結構遠かった気がしたのよねえ。気のせいかな」
そのまま話は流れて、他愛ない世間話になった。
その時にはもう私はチーフの言葉に意識を傾けられず、適当な相槌を打つだけになっていた。
どうしてそんなことを今更知りたがるのか、そればかり考えて、答えなんか出るはずもないと気づけたのは、チーフとの電話を終えてしばらく経ってからだった。
誕生日は三月八日。祝日でもないし一般的な行事のある日でもないだろうし、有坂にとって特別な意味のある日であるはずもない。
あと数日に迫ってるその日。知って有坂に何ができるというのだろう。それでも、私はその日を待つだろうと思った。土曜。電話の側に吊るしてあるカレンダーの曜日を指で辿って確かめる。
当日も待つのだ。家でじっと、来るはずのない何かを。
知ってしまったらもう、そうするしかできない。
郵便が届いた。小包じゃない。切手を貼って、普通郵便で差し出されている。昼過ぎに郵便受けを覗きに行って気がついた。
封筒。変な形に膨らんだ。ポストに入る大きさのそれ。定形郵便の料金分の切手と、配達日指定のスタンプ。皺が寄って、端は折れてる。何だかよれよれだ。
部屋に戻る足を止めずに、封筒を開く手も止めない。部屋のドアに前に着く前に封筒の封を切ったのは、足より手の方をしっかり動かした結果だ。
白い、少し厚めの紙。取り出してみて、シンプルなカードだとわかった。二つ折りに畳まれたそれを開く。印刷ではなく型押しだけで文字が浮かび上がらせてある、本当にシンプルなカード。
Happy birthday.
浮かび上がる文字の側に、ペンで書き添えられた手書きの文字。「誕生日おめでとう」とたった一言。
有坂らしいのか有坂らしくないのか、よくわからない。派手好みだって気がしないでもないけど、それを言うならこうやって郵便でカードなんか送ってくるような奴だったかと疑問が湧いてくる。
型押し以外の部分も変にでこぼこしているけれど、カードにはもう何も書かれていない。それを確かめて、部屋の中に入った。靴をもどかしく脱ぎ捨てて、小さな机の上に封筒の中身を取り出す。
出てきたのは、折り畳まれた白い便箋と、ボタン。
見覚えのないボタンは、記憶に残るほど凝視したことがなかっただけで、確かに目にしたことがあるのだろう物。
どこかの学校の……恐らくは有坂の高校の、学生服のボタンだった。プラスチック製の裏ボタンがくっついていたから、学生服のボタンには違いないだろうと思う。
手に取って、目元に近づけて眺めてみる。自分が高校生だった頃でさえ、自分の母校のボタンをじっくり眺めたことなんかない。男子生徒の着る制服のボタンは、私には縁のないものの一つだった。ひっそりと憧れる男子生徒がいたことと、ボタンを貰うこととは全然別。
ボタンを机に置いて、最後に残った便箋を広げた。
広げてみると、それは一枚しかなかった。シンプルな事務用便箋で、罫線以外には何も印刷されていない。そこに、さっきのカードに書かれていたのと同じペンで書かれただろう短い文章が、綺麗な文字で綴られていた。
『大学、合格しました。ありがとう。ボタンは貰って下さい。』
どういう意図で私にボタンなんか、と悩む。その答えはどこにも記されていなかった。ただ、『第二を除けときました。予備のほうじゃないです。』と書いてあるだけだ。
『ありがとう』
その言葉で締め括られた手紙。
差出人の住所は、外側の封筒にはなかった。ただ、有坂冬嗣と、綺麗な文字で書かれてた。本人の見た目同様、文字も整ってる。不真面目というか不道徳っぽい雰囲気も持ってるのに、どうしてなのか有坂らしい字だと思える、綺麗な文字。
目の前にいなくても、有坂は私を充分に動かせる。有坂が直接私に何かしたわけではなくても。
有坂の世界から私という存在が綺麗に消え去ることはあっても、私は忘れられない。ずっとずっと、覚えている。
思いがけなく届いたこの郵便。有坂が書いたもののどれにもさよならの文字はない。見落としようのない、見やすく書かれた短い文章ばかりだから間違いない。
この期に及んで甘いことを考えている。きちんと別れを切り出したりされてないならまだ大丈夫なんじゃないか、なんて。フェードアウトってことも有り得るどころか、正にそれだろうに。
さよならって言われなかったからこれで終わりじゃないなんて、普通の恋人同士みたいな始まりもなかったくせに、終わりだけはそうでないとと思ってる。
終わりなんか来てない、これからも来ないで、なんて、本当に甘い。
何で急に誕生日なんか知りたくなったんだろう。誕生日だから何だって言うんだろう。誕生日当日に届くように送ってきたのがこれなんて、どう判断すればいいんだろう。
有坂が目の前にいたら、怒鳴りつけそうだ。
そう思ったのはほんの短い間だけ。
有坂が目の前にいたら、触れて存在を確かめて、本当に目の前にいるんだって確認する以外の何事もできるはずがない。
冬季限定とかいうキャッチコピーの書かれたパッケージは、もうすぐ店頭から姿を消していくだろう。
風が柔らかくなって、陽射しが暖かくなって、本当に、春が来てしまう。
春が来て有坂がいなくなって、私は元通りの暮らしに戻る、はずだった。
本当の春が来て、完全に、もう欠片も期待など抱けない状態になった時、私はどうなってしまうんだろう。
今でも既に、もう期待なんて無駄なのに、そうやって期待していることで自分を何とか支えて、今、辛うじて立っていられるような気がしていた。不確かな、余りにも心細い、狭い足場の上で。
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