□ 冬季限定 10
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三月下旬

 隣の部屋の住人にうるさいって怒鳴られそうなくらいの大声だった。思い出すだけで恥ずかしい。だけど、思い出さずに済ませる方法もなさそうだ。
 もう何度目か数えるのもとっくに止めてしまった。今もまた、思い出してる。今この場所にいるに至るまでの全てを、鮮明に。お店なんかで流す宣伝用の短いビデオテープが何度も勝手に巻き戻されて自動再生されるみたいに。
 曇る窓ガラスの白さを手で拭えば、その向こう側も白い色をしている。

「あんたって呼ぶのをやめりゃいいんだな、高野さん」
 拗ねた子どもみたいな口調だった。ぷいっと横を向いて、私を組み敷いたまま私を視界から追い出した。
「そんな風に呼んだことなかったくせに」
 その態度に呆れて、言葉を口から吐き出すのに時間がかかった。
「あります。バイトしてる時に何度でも」
 それなのに有坂は即答してくる。口調だけでなく横顔にも拗ねたような表情を貼り付けて、機嫌を明確に表に出してる。子どもかあんたは。有坂がこの部屋に寝泊まりしてた頃の私なら、そう言ってやったと思う。今は、何かを言うより体を起こすことが先だ。
 また押し倒してくるかと思った有坂は、起き上がろうとする私を黙ったまま手助けした。ブラウスのボタンを留めるのをちらちらと、苛立たしげな目つきで見てくる。
「高野さんが俺に望んでんのって、そんなこと?そんだけ?」
 語気は荒くても怖くはない。何せ今の有坂は、単なる拗ねてる子どもでしかない。
「それだけだと、有坂には何か不都合があるの?」
 有坂とは逆に、私はどんどん平静を取り戻す。冷めていくのとはまた違う感覚。多分、安堵しているのだ。理由はわからないまま。
「ある。大有りだ」
 苛立ちが増していく有坂を見ていると、本当に子どもっぽいと思う。サービスいいよとか何とか言ったり色々仕掛けてきたり、バイトしてた時の有坂とは比較にならない。
 これが本性なのかと危うく騙されそうになる。
「どうして不都合が大有りなの」
 取るに足らない女が思い通りに動かないのがそんなに不服なんだろうか。そんなに、子どもみたいに拗ねたりするほどに。そうでないといいと思いながら、そうじゃないんじゃないかと思いながら、有坂の返事を待つ。
「何であんたって呼ばれたくないのか、理由は?それと、本当は何て呼ばれるのがお望みなのかとか、もっとちゃんと説明してもらわないと、全っ然わからん。ホントに俺に望んでんのはそんだけ?」
 不機嫌さを示すメーターみたいに、有坂の口調は荒れて、声は大きくなる。理屈を捏ね回す、カッコつけて背伸びしてる子どもみたい。
 落ち着いている。こんな風に気持ちが静かなのは久々だと思った。十一月に、四ヶ月前に有坂がとんでもない一言を私に告げて以来、感情の波を抑えようという動きが私の中にいつもあった。それが、今はない。すうっと引いてしまった。
「冬季限定って、あんたが言い出したんでしょう」
 落ち着いた状態でこの言葉を有坂に伝えることができるとは思ったことがなかった。絶対に無理だと思ってた。でも今、大して難しくもなく、容易に実行できている。
「……あんたって呼ぶなって言った奴が人のことあんたって呼ぶんじゃねえよ」
 そういう反論、本当に子どもみたいだ。整った、黙ってれば大人の男にも見える外見をしているくせに、スーツだって着てて普段より年齢が上がって見えるはずなのに、言ってる事もやってることもお子様だ。
「じゃあ何て呼べってのよ」
「それはそっちが先に俺に説明すべきだろ」
 平行線だ。この調子で行ったら決着がつかない。
「もう春なんだから期間過ぎてんのよ、もう私のことなんかどうだっていいはずでしょう」
 開き直りという言葉が頭を掠める。今の私はそういう状態なのかもしれない。有坂の返事が肯定でもいいと。
 そうじゃない。
 私は、有坂が否定してくれるのを待っているのだ。
 めいっぱい不機嫌になる理由とか、今ここに私を訪ねてきた事実とか、そういうのを全部、いろんなことを全部、十一月から今までに起きたどんな些細なことも全部ひっくるめて、私は、有坂が私の言葉を否定してくれるんじゃないかって、望むだけじゃなく、実際に目の前で現実になるんじゃないかって、思っているのだ。
 有坂が黙り込む。感情が一気に内に引っ込んだような、硬い表情で。
 否定して、と自分から言えばいいのに、黙って待ってる。
 しばらくして有坂が、ふっと笑みを見せた。
「どうでもいいならわざわざ来るかよ」
 しょうがないなあ。そう言い出しそうな調子で、有坂の声が、私に、今一番欲しいものをくれた。
 でも、満足してる暇までは与えられなかった。
 腕時計を見る有坂。動作の速度は急速に上がって、慌てているように見える。
「あーもーめんどくせえ!」
 急に立ち上がった有坂が、やけに大きな声でそう言った。
「ちょっと、近所迷惑に」
 なるからやめてよ。そう続ける前に、有坂の手が私の腕を掴んで強く引っ張り上げた。
「何すんのよ」
 抵抗する間もなく立ち上がらされただけでなく、そのまま玄関の方へと引き摺られる。
 有坂は焦りながら靴を履いた。私が靴を履いているかいないか確認することもなく、ドアを開け放ち、一歩踏み出す。
「早く!」
 靴を履かないままドアから引っ張り出されたので抵抗したら、有坂が振り返るなり怒鳴った。
「何で?」
 わけがわからず、少しの腹立ちも覚えながら、それでも靴を履く。外へ出ようとしている様子に、下駄箱の上の鍵と財布をどうにか引っ掴む。ほぼ同時に、有坂がまた前進し始めた。
「ちょっと、まってよ」
 鍵をかけないで部屋を離れるわけにはいかない。それなのに、有坂は急いでいて、今にも走り出しそうだ。
「待ってって言ってるでしょう!」
 感情に任せて大声を出した。それでやっと、固く掴まれていた腕を開放される。有坂の焦りが伝染したみたいに、素早く鍵をかける。
「急げよ!」
「だから何で!」
 急に話が通じなくなったみたいな印象。お互いに、馬鹿みたいに大声を張り上げてる。
「どうせバイトしてねえんだろ。急に訪ねて来ても家にいるくらい暇なんだろ。大学もまだ休みなんだから時間余ってんだろ」
 前に向き直って、歩き出す準備を整えて、背中しか見えない有坂が、少しだけ声の音量を下げて言った。
 そう言って、また私を引き摺るようにして歩き出す。途中からはもう、走ってた。
 駅に着いて、快速に飛び乗って、焦ってるのを隠しもしないでピリピリしてるから目的地も聞き出せないまま。
 途中から、目的地を聞けない理由が、まさか、そんな馬鹿な、という感情に変わっていき、辿り着いた場所でもまだ疑っていたけれど、常にどちらかの手で私の体の一部に触れて離さない有坂が躊躇うことなく進んでいくのに引っ張られて。
 飛行機に乗せられた。

 飛行機を降り、空港を出たらもう、そこは冬だった。
 辺りに残る雪、冷たい空気。ブラウス一枚で財布と家の鍵くらいしかポケットに入ってない。当然コートなんか持ってない。震えが抑えられないのも当然だ。気温が全然違う。夜だからって一言で済む程度でなどない。とんでもなく寒い。
 三月だというのに、北海道では当たり前のことのようにしっかりと雪が残っていて、別に珍しいものでも何でもないことを証明するみたいに、地面のあちこちが白い。吐く息も、夜の闇に白く浮かび上がる。
「やせ我慢してないでしっかりくっついてれば」
 笑わない有坂が私の方を見ないまま私を引き寄せる。結局、有坂は私からわずかな時間も手を離さなかった。
 スーツで、コートを着ていなくて寒そうなのは同じはずなのに、割と平気そうに見える。北海道に住んでいる人にとっては、今ぐらいの気温はやっぱり真冬に比べれば暖かいのだろうが。いや、私が寒いのは、ブラウス一枚だからで、有坂がまだ平気そうなのは、スーツはブラウスより厚着だからだ。雪の多いところの出身でも、ブラウス一枚なら当然寒いのだ。
「冬ならいいっていうなら、今はいいよな」
 市内へ出るバスに乗り込む前。少ないとはいえ辺りには人がいる。そんなことは気にもしないのだろう、有坂は、首を傾け頬をぴったりと寄せてきた。
「いきなり何すんのよ」
 怒りがこもってるべきだったはずの言葉は、私の耳にやや情けなく聞こえた。こんなんじゃ、有坂に怒りなんかほんの少しも伝わりもしない。頬の温かさに心を奪われそうになっていることがばれてしまいそうだ。
「冬ならいいんだろ?」
 今はもう、苛立っても慌ててもいない有坂。一緒に住んでた間に私に見せてたのとあまり変わらない有坂だ。ただ、笑わない。機嫌が悪いとかではないようだけど。
「俺が冬季限定にしましょうなんていらん提案最初にしたから、それにこだわってんでしょ、叡子さんは。ここ、まだ冬っぽいし」
 笑わない有坂の、冗談で片付けるには規模の大きい企み。
「だから、こんなとこまで連れてきたっていうの?」
「……入学式用にスーツがいるとかどうしてもいるものがあるとか理由こじつけて、ホントは戻らないつもりだったのにわざわざ戻ったりして、戻ってる間に全部はっきりさせるつもりだったのに、いざ会いに行くとなるとなかなか実行に移せなくて、やっと会いに行ったら、俺の前じゃ絶対泣かなかったくせにぼろぼろ泣いてるし」
 ふーっと、有坂が息をつく。それが有坂の顔の周りを白く取り巻く。
「まだ俺のペースで事が運んでると思ってた。ちょっと揺らせばそっちから落ちてくると思ってた。でも、意地になって言わせてやろうとしたのに、めちゃくちゃ強情だし」
 笑わない有坂の横顔。発車時刻が迫ったバスに乗り込む為に歩き始める。
 バスの座席はほとんど空いていて、人がかなりばらけてる。人のいない後ろの方の座席まで有坂が進んでいく。その間に見かけた数少ない他の乗客は、例外なく大荷物を抱えてて、例外なく、手ぶらで軽装の私と有坂を不思議そうに見た。
 私を奥の座席に座らせて、自分は通路側に座る。そうすることで逃げ道を塞ぐような。それはさすがに考え過ぎだろうけど。
 ドアが閉まる音が小さく聞こえ、バスがゆっくりと動き出す。揺られて体が動くのを、有坂が座席に押さえつけるように肩に触れてくる。
 すぐ目の前に有坂の顔がある。笑わないのは、真剣だから。
「こんなとこまで攫ってきてしまった。これで実は俺の勘違いとかだったら、すんげえカッコ悪いな」
 バスの中だというのに、有坂の声はよく通る。周囲を見渡そうとするけれど、視界は有坂でいっぱいになっている。
「勘違い?」
 ひそめるまではいかないけれど、辺りに響かないように声を抑える。
「叡子さん、俺のこと好きでしょう」
 こんなところで何をやってるんだろうと、ふと我に返りそうになるのを、私を窓に押しつけそうなくらい近づいている有坂が留める。
「ね、好きなんでしょう」
「知らない」
「自分の感情だろ。好きか嫌いかどっちかだろ?」
「嫌いか、嫌いじゃないかのどっちかよ」
 こんなところで言い返したりするのは、素直じゃないし可愛げもない。わかってるけど、急にこんなところまで連れて来られて、すぐ側まで有坂が迫っている状況で、どう考えても冷静でいられるはずがなかった。
 でも、嫌いという音を口にした時、有坂の表情が一気に強張ったのが、暗めのバス内にいて、よくわかった。
「馬鹿じゃないの?」
 つい、そんな風に言ってしまった。一瞬むっとした表情になった有坂を見て、また大声で言い合いになるかと思った。家を出る時のあの言い合いは、アパート内にいた人みんなに聞こえてたに違いない。今それをやれば、当分目的地には着かないバスの中で、一斉に注目を浴びそうだ。
 けど、有坂は。
「そうだよ。馬鹿なんだよ。呆れた?」
 ふっと笑った。
 それから先はもう、私に同意を求めることも、何かを囁きかけることもなく、唇を合わせて、離しているのが勿体無いとでも言わんばかりに、引き寄せて強く抱いた。

 それから、私が一人暮らしをしている部屋より広くて家賃は安いという部屋に連れて行かれて、所持金が五千円に満たない私は、ただ大人しく室内に転がっている。
 ここに来て二日経った。
 飼われてるみたいに、ただ部屋にいるだけ。着替えはないので有坂の服を借りて、お金もないので出歩かない。
 窓の外は、まだ雪が残ってて白い。雪を見ている内に、手で拭っただけの窓ガラスはまた曇り始める。
 以前とは逆転したどころか。
「金稼いで来ないと、叡子さん帰れないもんねえ。俺はもう手持ちすっからかんだし、ウチの親、四月になんないと金送ってくんないって言うし、しょうがないねえ」
 私の誕生日を訊き出した時と同じ手段を、有坂は駆使した。バイト先のチーフに電話して、こっちにもある系列店にバイトで入れて欲しいと口利きを頼んで、今日から早速バイトしに行っている。身分証明書も何にも手元にないし、この辺りに住んでいるわけでもない私には、自力でバイトするという手は使えない。財布に銀行のキャッシュカードも入ってないから、預金を崩して飛行機のチケット代にすることもできなかった。
 また曇ってしまったガラス。まだ春じゃないという感覚を起こさせる、内側と外側の温度差。室内では、エアコンが稼動して空気を暖めている。
「何で誕生日なんか訊いたりしたのよ」
 そう訊ねた私に有坂は、誕生日が四月とか、もう少し先だったら、会いに戻る口実にする気だったと言った。
「そしたら、熱烈な告白のひとつもしたんだけど。まあ、仕込みが間に合わないからさ、感情を引っ張っとけるような手でも打っとくしかなかったんで、ああなった」
 しれっと、言ってのけた。
「確かに、ボタンとカードだけじゃ、こいつ何がしたいのよって思った」
 私の返事が素直じゃなくても可愛げがなくても、もう有坂はただ笑って聞き流す。そして、面白そうにこう続けるのだ。
「でも、俺のこと好きなんだよねえ、叡子さんは」
 それに私は返事をしない。
 どっちが先に折れるかを競ってるみたいな状態だと思う。
 それでも、ジグソーパズルのピースを確実にはめていくように、疑問点がクリアになっていく。
 この二日間に取りたてて特別なことを話し合ったりしたわけではないけれど、わからないのは、この先どうなっていくのかということぐらいになっている。
 明日有坂が受け取ってくる二日分のバイト代で飛行機のチケットを取る。明後日にはもう帰れる。
 結局、有坂が私をここまで連れてきたからといって、何が変わるわけでもない。そういうことなのかもしれない。
 手足の長い有坂の服は、袖や裾を何度も折らないと手足の先を外に出せない。この格好で外には出られない。一人きりで部屋にいて、テレビ番組も見慣れないローカル番組が多くて、することも特にないから、もう何度もそんなことを考えたり、有坂が私をここへ連れてくるまでの流れを何度も思い出している。
 そうです、私は有坂のことが好きなんです。だったらどうすればいいっていうの。それを口に出せば冬が終わっても有坂が手に入るとでもいうのか。

「で、明日帰る?明後日にしとく?明後日まで居ても観光さしたげるだけの金はないけど」
 その台詞を口にする有坂の表情は、真剣でも強張ってもいなくて、口元には笑みさえ浮かんでいて、余裕があった。
「さあ、どうしよう」
 答える私は感情を押し隠す。
 帰りたくないけど帰らないわけにもいかない。でもまだ大学は始まらないし、急いで帰る必要は、無いといえば無い。
「ゆっくりしてけば?」
 どうせ急いで帰っても何にもすることないんでしょ。そう言って有坂は笑う。
「叡子さんもフトコロ事情は厳しいんだよね、そんなしょっちゅうこっち来れないでしょ」
 笑っている。軽い調子で、冗談でも言うみたいに、私にとっては重要なことを話している。
「俺は次は年末まで帰れないし」
 冗談の延長のような口調で、そんなことを言ってる。
「だからね、冬しか駄目なんだ」
 その言葉を言う時だけ、少し、声が低く沈んだ。
「……だからなの?」
「ん?」
 訊ねる私の疑問点がわからないのか、有坂は首をかしげる。
「最初に冬季限定って言ったの」
「だって、こっちに進学したら、実質冬しか付き合ってるって言えない状態になるのはホントだから」
「な……」
「だって、カッコ悪いだろ。あっさりふられたら。最初にああ言っとけば、言い訳も立つと思ったし」
 有坂は、私が淹れたお茶を一口すすって、ふーっと息をついた。ちょっと大袈裟に感じるような、コミカルな動作だった。
「だから、ちゃんと付き合おうよ。会うのは、冬季限定だけどさ」
 その一言を口に出すのに、有坂は一瞬も躊躇うことはなかったけれど、決して軽い調子で言ったのではないのだと、ちゃんとわかった。
 返事が出来ない。喉からこみ上げて溢れていきそうな感情の正体もちゃんと理解できているのに。
 そんな私を引き寄せて、有坂は耳元でそっと囁いた。ほんの少し、震える声で。
「はいって言わないと帰さない」
 素直にはいと答えたら、私が先に折れるみたいでちょっと悔しい。だからこう言ってやった。
「……そんな風に言われると、いいえって答えたくなる」
 えっ、と有坂がつぶやいて、私の顔を覗き込んできた。
 その顔がとても可愛らしかったので、思わず笑ってしまいそうになるのを必死でこらえる。
 そして、私の言葉の意味を理解して、有坂が笑みをこぼすまでの数秒間、いいえって答えたら、ここにいられる。そう出来たらどうなっているのか。そんなことを考えていた。

( end )


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