□ 冬季限定 7
二月下旬
一旦帰ると言って私の前から有坂がいなくなった。
だから、もう春だ。
春が来たから有坂がいなくなったのではなく、有坂がいなくなったから春。どんなに寒くても、冷たい風が手をどんどん冷やしていっても。
冷えた手を暖めてくれる大きな手は、もうない。
変わり栄えのしない平穏な日常を取り戻した。従来に戻った。そう思おうとしても、もう無理だった。この部屋で一人で、どんな風に暮らしてきたのか、明瞭に思い出せなくなってしまっていた。
今日も冷えるねえ、温かいお茶淹れてほしーなー、ねえ、叡子さあん。
幻聴ですらない。そう言われたい本音が、何度も頭の中で再生させているだけ。
自動的に色々な場面を再生出来る程には、一緒に暮らした。二ヶ月と少しで自分がこんなにも変えられてしまったことに、今更もう驚く気にはならない。
好きになってしまったこと自体が、そもそもの間違いだ。自分を振り向くはずのない、釣り合うはずのない相手だと知っていても、好きになる気持ちは止められないものなのだと、経験から知る。
そんな恋をするのは馬鹿げてて、自分の身に降りかかることなんか有り得ないとまで思っていたのに。
いなくなっても結局は、有坂のことばかり考えている。
もう戻らない人を、いつまでもいつまでも思って暮らしそうな自分が嫌でも、どうすることもできない。時間が経てば少しは和らぐだろうか、この痛みは。
そんな日は二度と来ない。有坂がもう二度と私の前に現れないだろうと思うことと同じ位の強さでそう思う。
始めからわかっていたことが現実になっただけで、どうしてこんなにつらいんだろう。覚悟なんか、何の役にも立たなかった。
夕方から雪が降るかも、と天気予報で言ってたぐらい、とても冷える日の午後。
何もする気になれないとまでは言わないけど、気力が足りなくて、とても無駄な時間の過ごし方をした。
ごろりと床に転がって、ぼんやりと天井を眺めた。あの日も見上げた、同じ、変わりない天井だ。
そのまま眠るでもなくただ天井を見て、随分と時間が経ってからのろのろと体を起こす。暖房を使っていない室内の空気は冷たくて、吐く息が白く見えそうだ。手足の先が冷えている。温かいお茶でも飲もう。
そこまで思ってまた思い出してしまったら、力が抜けた。もう、こうやって思い出すのは止めたいのに。
ほとんど何も知らない相手。また会えるとは思えない相手。それでも、鮮明に何度でも思い出せる。どんな風に私に近づいてきたかも、最初にどんな言葉を交わしたかも、笑顔も、声も、体温も。
欲しいのは温かなお茶じゃない。壊れ物でも扱うみたいにひどく優しい力で私を抱いたあの腕が、それが叶わないならせめて、冷えた指先を暖める大きな手が、いや、一度だけ、叡子さんって呼ばれたい。それだけでもいい。
こうなるのがわかっていたのに、私は有坂から逃げられなかった。全力で拒否して、全力で逃亡するべきだったのに。
口の中にある、ほんのひとときだけ甘さを楽しませてもらえる、小さなお菓子。美味しそうだと眺める時間のほうが、美味しかったからまた食べたいと望む時間のほうが、遥かに長いのに。
やっぱり、お茶を飲もう。いつもの緑茶じゃなくて、紅茶を淹れよう。ティーバッグがどこかにあったはず。ないなら買ってこよう。それから、あの甘くてすぐに溶けてなくなってしまうチョコレートのお菓子も。
そうしよう。外が完全に暗くなってしまう前に。
もう一度起き上がって、コートを手に取って靴を履きながら羽織る。
玄関のドアノブに手をかけたところで、呼び鈴が鳴った。こんな時間に来るのは新聞の勧誘だろうか。速達も宅配便も電報も届く予定なんかない。新聞の勧誘だったら、無視して退散するのをしばらく待とう。
ドアスコープを覗いて、すぐに体が動いた。ドアを開けるのにかかるわずかな時間すらもどかしく感じた。
「お久し振り」
ドアの開く音にもかき消されない、もう耳に馴染んでしまった声。開けたドアの向こうに、どこか淋しげな印象を与える微笑みを浮かべた、有坂が立っていた。
コートを脱ぐと、中は制服。袖ですらボタンがひとつもついていない学生服。片手で抱えていた大きな花束と黒い紙筒は、今テーブルの上に置いてあり、この部屋で暮らしていた間には見せなかったかしこまった姿勢で有坂は座っている。
「卒業式だったんだ」
有坂が説明するみたいに言ったけど、言われなくてもわかっていた。この時期だし、黒い紙筒やらボタンのない学生服やら、連想させる材料は揃ってた。私服登校が許されている学校だと言っていたけれど、さすがに卒業式は制服を着るものなのだろう。
一人で飲むつもりだった紅茶を、二人分淹れて運んでくる。小さくお礼を言って、有坂がカップに口をつけた。
あれほど何度も思い出したのに、最後にあってからそんなに長い時間が流れたわけでもないのに、目の前にいる有坂は、私の知っている有坂とは違う人みたいに見えてくる。どこかが違うと思うのに、どこがどう、と指摘できる類の違和感じゃない。卒業式を終えて感傷的になっているのかもしれないし、もっと違う理由が何かあるのかもしれない。
気がつくとじーっと見てしまっていた。誤魔化すみたいに私も紅茶を口に含む。味がわからない。わからないままに飲み込んだ。
全てのボタンがなくなるわけではないにしても、上から二番目のボタンの需要が高いことぐらいは知っている。一年前に同じように高校を卒業した時、人気のあった男子生徒が、やっぱり同じようにボタンのない制服を着ていた。ひとつも残らずということの意味するところぐらい想像がつく。有坂は、相当もてるんだろう。
その上、大きな花束を持っている。在校生から貰ったものなのだろうが、高級そうな花が惜しげもなく使われた立派なものだ。その他大勢の生徒が貰う程度のものではないに違いない。一年前、花束など貰った記憶のない自分の経験から、そう見当をつけた。
沈黙が流れる中、有坂がカップをテーブルに置いた音がやけに耳につく。それをきっかけにして、有坂が沈黙を破る。
「これから、大学で受験があるんだ」
「どこ?」
迷う暇もなく訊ねていた。有坂の返事は一瞬遅れて届いた。
「北海道」
遠い。遠いらしいとは聞いて知ってたけど、改めて地名を聞くと、本当に遠い。詳細な地名や大学名を出されるより遠さを感じてしまうのはつまらない感傷のせいだ。訊ねなくても教えてくれるなんてことはないんだと思うから。こまかく追求すれば有坂は説明してくれるかもしれないし、嫌そうに言葉を濁すかもしれない。だからその先は訊けなかった。拒まれるのが嫌だった。
「遠いね」
当然の感想を告げる自分の声が、遠く、冷たく聞こえる。肝心なのはそんなことじゃない。もっと他に言うべきことがあるのだと、わかりすぎる本心が告げている。それでも。
「うん」
有坂が、素直な子どもみたいに頷いたから、何にも言えなくなった。
冬の間だけって約束をしっかりと交わしたわけじゃない。でも、事実上そうなってしまうのが当然だという状況がちゃんと背景にあった。詳しくは訊かなかったけれど、ここまできて大学に落ちるような失敗はしないだろうから、もう確定事項なのだ。
「そのまま、もう住むとこ決めてしまうつもり」
本当に有坂は、いなくなる。
もう、簡単には会えない遠いところへ行ってしまう。
もう既に手の届かないところに去ったはずの人が今また目の前に現れて、駄目押しをして去っていく。
このまま黙って消えてくれたらよかったのにと思いながら、もう一度会えたことが単純に嬉しい気持ちも確かにある。正反対の気持ちが、また私を悩ませる。
最初からそうと決まっていたことに今更文句をつけても仕方がない。でも一言ぐらい何か言ってやりたい。そうしたら何かとんでもないことを言ってしまいそうでそれも恐い。これで最後なんだから後先気にせず言いたいことを言ってしまえとも思うのに、そこまで自分をかなぐり捨てて有坂の自尊心を満たしてやることもないと、ぎりぎりのところで踏み止まる。
何も言えない。言えないまま有坂を見つめている。有坂の表情から考えていることを読み取ろうとか、実行に移すどころか考えもられもせずに。ただ、私を見つめ返してくる瞳を、じっと。
「引き留めてくれたりは、しないんだな」
有坂が、口元を少し歪めて笑った。面白くて笑っているようではなく、自嘲的だ。
今までは結局、口では素っ気無いことを言い続けながら、態度では有坂に屈してた。最後までそうである必要はないのだ。最後ぐらい、折れてやらなくてもいい。そんなことで有坂にささやかな満足感を味あわせる必要はない。
やっぱり、そんな真似はしない。泣き叫んでも手に入らないことを知っている。それでも、口を開いたら泣き叫んで求めてねだってしまう可能性がゼロじゃないとわかっているから、口を開けなかった。
「最初はさ、お堅い女たぶらかして利用して、それで終わるもんだと思ってたんだよ」
世間話でもするみたいに、さらりと言う。嘘でも冗談でも何でもなく、有坂はそういうつもりだっただろうし、今までもそれを実行に移したりしたんだと、私に思わせるだけの説得力があった。
サービスいい、と有坂は自分を評してた。そのとおりだ。美しくも可愛らしくもない私をちゃんと女扱いしただけでも、誉められるべきかもしれない。私の気を引いておくことが有坂の目的を達成するのに必要だったからという、それだけの理由だったとしても。
男は好きでもない女でも抱けるっていうけれど。
「でも違った」
結果は変わらないのに、その言葉は私に期待を抱かせる。また有坂が口を開く。何かを言われてしまう前に、声が耳に届く前に、遮って絶対に聞かなければこれ以上無駄な期待なんかしなくて済むだろう。でも、聞きたい。その先を。どう違ったのか知りたい。知って何が変わるわけではないにしても。
そんなことはどうでもよくて、ただ有坂の声を聞いていたいだけかもしれない。
黙ったまま、続く言葉を待っている。
何かを言おうとしているのはわかる。その度にそれは中断される。そして最後には、有坂は、開いた口を閉じて黙ってしまった。
見つめ合うだけで通じるものなんか、ない。そんなによく知り合った仲じゃないんだから、言葉にしないと伝わらない。それでも、私は何も言えなかったし、有坂も、遂にその先を言わなかった。
「試験、頑張ってね」
これだけは言いたかった。飽和状態にまで膨れ上がってもうどうやって整理すればいいのかわからなくなった感情のなかで、これだけは、いろんな意味を含みながらも紛れもない本音だった。
口に出せばもう話すこともなくなってしまって、最後にちょっとだけ挨拶でも、と顔を出したんだろう有坂の用事は終わってしまう。それでも、言えるのは、言ってもいいのは、もうこれだけ。
「……うん」
有坂はまだ口元を歪めた、苦笑いみたいな表情のままだ。納得がいかない。そう思ってるようでもある。確かに、この程度の女に取られる態度にしては、納得しずらい部類に入るだろう。
制服を着て、年相応の男の子。
この子に抱かれたわけじゃない。
この子は、私が好きになった男とは別の人間だ。
もう、どこにもいないんだ。
そう思おう。
そうやって片付けてしまえたらいいのに。
「制服」
ふと浮かんだ疑問。
「ん?」
「ボタンないのに、受験の時どうするの。制服まだ要るのに」
つまらない疑問でも口に出していないと、違うことを口に出してしまうから、訊ねてみた。
「予備があるんだよ」
「そうなんだ」
返事は簡単で、すぐに納得できて話は終わってしまった。
次は。次は……。未練がましく探してる。その花は誰から貰ったの、と訊ねることもできるだろう。でも、きっと聞きたいような内容の答えは帰ってこない。
そのまま、言葉は途絶えた。
「じゃあ、行くね」
有坂は脇に置いたコートを持って立ち上がると、テーブルの上の花束と黒い紙筒を手に取った。
「着ないの?」
まだ外は寒いはずだ。でも有坂は首を横に振って玄関に向かう。
この前出て行った時と重なる背中。
違うのは、学生服だってことと、もう有坂は何も言わないこと、振り返りもしないこと。
自分の家の玄関のドアを開けるみたいに、慣れを感じさせる手つき。やっぱり振り返らない。後ろ手でドアを閉める、ドアの隙間からわずかに見える指先。
それっきり。
さよならも言わないで、行ってしまった。
何しに来たんだと責めることも、最後に会えてよかったと伝えることも、本当に、もうない。
「そうか、春だし」
掠れた自分の声。すごく変だ。それに、考えてることも変。
もう春だから有坂はコートを着なかったんだなんて。
じゃあ来た時着てたのは何でだ、というようなことを完全に無視して、そんなつまらないことを考えていた。
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