□ 過ぎる夏 4
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4.浴衣の帯を締める

「佐保」
 控えめにドアをノックする音と、私を呼ぶ声。遠くから聞こえては私の意識を通り過ぎていく。
「佐保、開けるで」
 そう言いながらもまたドアがノックされた。
「なあ、佐保、まだ寝てるんか?」
 そう、寝てます。とても眠いんで。
 私の思考が伝わったのかと思ってしまうくらいのタイミングで、ノックと呼び声が止んだ。
 もう少し眠りたい。また意識が深いところに沈んでいきそうになっているのがわかる。
「早季子」
 もう後少しで完全に意識が途切れていたところへ、聞こえたのは、男の人の声で呼ばれるのは随分久し振りの、私の名前。
 父さんが死んで、呼ばれなくなったはずの。
 誰が呼んだのか考えて、やっと眠りは遠ざかり始めた。
 かちゃり、と音を立てたのは、部屋のドア。
 床の上を歩く音。
 ゆっくり目を開けると、目の前に佐藤の顔があった。
 寝起きのこのタイミングで佐藤の顔をアップで見るのは初めてだったけど、そんなことを考えている余裕なんかない。
 まだ頭はぼんやりしていて、考えるって行為を上手くこなせない。
 長い睫毛の奥にある、青い瞳。澄んでいて、それを不思議な色合いだと思うことはできても。
「佐保、寝ぼけてる?」
 怪訝そうに訊いてくる佐藤の声が、かすかに響く感じ。
 体中の血液が顔に向かって集まってきたような感覚。今、ものすごく顔が赤いんじゃないだろうか。やっと覚めてきた頭にそんなことが浮かぶ。
 いちいち佐藤は、こっちをドキドキさせる。
 本人にそのつもりなんかなくても。
「……目え覚めた」
 数回瞬きして、赤い顔をごまかすように手でこすって。
 佐藤が少し体を引いたのを見てから、体を起こす。
「なに、どないしたん」
「おばさんが、起こして来てて言わはるから。それにもう昼前やし」
「え」
 枕元の目覚まし時計はもうちょっとで11時50分になるところ。6時間くらい寝てたのか。
「わかった、すぐ行く」
 言うと、佐藤は、そっか、とつぶやいて立ち上がった。静かに部屋を出て行く。
「勝手に入ってごめんな」
 ドアのところで振り返って謝って、返事を待たずに行ってしまった。
 そうだ、そっちのほうを、問題視する場面なんだ、今は。
 そのことに今思い当たった。
 それまで心を占めていたのは、私を名前で呼んだ、佐藤の声だった。
 手で頬をぺちぺちと軽く叩く。目を覚まして頭をすっきりさせようと。
 触れた頬は熱くて、効果はなかった。

 おばちゃんの話を聞いて、抜けきってなかった眠気が一気に飛んだ。
「せやから、今晩帰って来れへんと思うんよ」
「えっ」
 少し離れた所で怪訝そうにこっちを見ている佐藤を意識しつつも、焦るのを隠せない。
 母さんの弟でおばちゃんの兄で、兵庫に住んでる私のおじさん。足の骨を折って、今日手術するので、おばちゃんが付き添いに行くことになった。
「ごめんねえ、浴衣は出しとくから」
 謝るおばちゃんを、佐藤は困惑して見ている。そして言葉を口にする。
「出しといてもろても、自分では着れませんし」
 そこで佐藤から視線を私に向けて、おばちゃんはにっこり。
「さっちゃんが着つけできるし、大丈夫やんね?」
「ええっ」
 父さんに着せたりしてたから、できるけど、でも。父さんや女の子に着せるのとは違う。相手は佐藤。
「ほな、もう行くわ。夜は戸締りきちんとね。サトウさん、よかったらもう一晩でも二晩でも泊まって行ってね」
 既によそ行きの服に着替えて外出の支度が整ってたおばちゃんは、急ぎ足で出かけていった。
 待って。
 佐藤に浴衣着せるのも、他に人がいない家に佐藤が泊まるのも、軽い調子で「はい」って返事できることじゃないと思うんだけど。
 ちらりと、佐藤を見た。
 私以上に困惑した表情の佐藤が、そこにいた。
「どないしよう」
 訊ねてくるその声も、困ったって感じが溢れてる。
 私以上に、まずいんじゃないかって思ってるような、そういう態度。
「ええよ、浴衣着て花火観に行って、うち泊まってったら」
 私が意識する必要はないんだから。
 佐藤とは、父親同士が親しいから、それなりに親しくなった同級生で、一応は友達なんだから、私は普通にしてればいいんだから。
 佐藤は私を好きだと言ったから、その反応はある程度当然といえば当然なわけだし。
 私は佐藤を好きではないはずだから、特に意識せず、普通にしてればいいはずなんだから。
 なるべく平然と言ったつもりだった。佐藤にもそう聞こえててくれればいいと思う。
 けど、自分で気づいてしまった。私は、必死で自分に言い聞かせてる。言い聞かせる必要があるってことは、違う気持ちなのかもしれないって。
「ええの?」
 佐藤の目が、少しだけ鋭くなったのがわかった。
 駄目だと言えば、佐藤は難波辺りで泊まるとか言うだろうけど。
「佐藤はどうしたいん?」
 訊いてから、後悔した。そんなこと、訊くまでもないはずだった。
 やっぱり、それを俺に訊くか、という顔をしてる佐藤。溜め息をひとつ。
「言葉にすんのは色々とアレやから、詳しく説明するんはやめとくけど、このまま泊めてもらえるとありがたい」
 困惑した表情は溜め息と共に消えてしまって、もういつも通りに戻った。
 佐藤は、切り換えが速い。

 二人で課題を黙々とこなし、日も落ち始めた時間になって、全部終わった。これでこの夏は後は遊ぶだけ。二人でやると速くていいな、と素直に思っていたら。
「浴衣、着せてくれるんやんな?」
 佐藤の、少し硬い声。表情も少し硬い。
「ああ、そやね、そろそろ着替えよか。ほなシャワー浴びてきて」
「え」
「浴衣着る前に汗流さんと。風呂場にタオルとかいろいろあるから、好きに使って」
 佐藤を風呂をすすめる間、男物の帯の締め方を頭の中で反芻する。
「なあ」
 何だか情けない声だと思った。佐藤は風呂場のドアの前で頭をかいてる。
「上がった後は、普通に服着て出て行けばええの?」
 赤い頬。
 それを見るまで全く考えてなかった。浴衣を着せるには、着てないところから始めなきゃいけないんだった。
「え、あー……っと、じゃあ」
 おろおろしてしまう。慌てて和室に戻って、浴衣を持ってくる。
「これ、羽織って出てきて。Tシャツは……白の無地のやつ、持ってる?」
「うん」
「じゃあそれと、下着、つけてから、浴衣羽織って」
 佐藤の手に浴衣を押しつけて、風呂場を離れた。
 しまった。何にも考えないで気軽にええよなんて言って。
 帯を締めるのに接近したり触れたりしなきゃいけないのに、何気なく振舞えない気がする。
 それなりに親しいとはいえ、幼い頃からのつきあいじゃないし、普通に服を着ていないところを目撃する機会なんかなかったし。
 しばらくして聞こえ始めた水音。私の心拍数はどんどん上がっていくばっかりだった。

「こっちを前にして、ここ、ちょっと押さえとって」
 言われたとおりに行動する佐藤がちょっと情けない感じに見えるのは、多分照れて困ってるからだと思う。
 でも、私のほうがよっぽど照れてると思うし、動揺もしてるはずだ。
「手、真横に上げといて」
 浴衣を整えたり、紐を体に巻きつけるのに、抱きつくような体制になるのがまた、冷静じゃいられない要因だ。必死で平坦な声を出そうとする。
 男物の浴衣の方が着つけは簡単だから、何も難しいことをしているわけじゃないのに、父さんにはよく着せてあげたのに、ぎこちない動きになってしまって上手く着せられない。
「なあ、佐保」
「ん?」
「ゆっくりやりや」
 言葉の後、佐藤の手が、私の頭に触れた。
 その途端に、持っていた帯を床の上に落としてしまった。慌てて拾い上げる。
 駄目だ。普通になんかできない。
 本人にそのつもりなんかなくても、佐藤は私を冷静じゃいられなくしてしまう。
 でも本当は、佐藤がそうしてるんじゃない。私が勝手にそうなってるだけなんだ。
 好きだとか嫌いだとかそういうことを意識する以前に、私は既に冷静じゃない。
 自分の気持ちもわからない。
 こんなんじゃ、佐藤を納得させるだけの理由なんか、考え付きそうもない。
「佐保」
 穏かな声がすぐ側にいる私を呼ぶのに、返事ができない。
 しばらくの沈黙の後、佐藤の手がまた私の頭に触れて、「早季子」って呼んだ。
 返事は、やっぱりできなかった。息苦しくて、声を出すことができなかった。
 結局、そのまま何とか帯を締め終わるまで、口を開くことができないままだった。


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