□ 過ぎる夏 10
10.どうでもええんや
夕方には、かなり体が楽になった。熱はまだあるけど、慣れてきたせいなのか、もう頭はあまりぼんやりしていない。
この一日のことを考えると、熱のせいじゃない顔の熱さを感じるけど、助けてもらったわけだし、佐藤は別に照れてはいない。
佐藤は今台所でおかゆを作っている。冷蔵庫の中の材料を使っていいかと聞かれたので、ただお米を炊くだけじゃないつもりらしい。
佐藤が明け方買い込んできた缶ジュース。もうぬるくなってる。
喉が痛いし、渇くから、ホントはお茶や水がいいんだけど、とりあえず飲む。
けど、どうも台所が騒がしい。落ち着かない。
もうあまりふらつかなくなったし、寒気もかなり治まったし。パジャマなのがちょっと恥かしい気がするけど、私はそっと布団を抜け出す。
「痛っ」
不規則なまな板の音と、その後の小さな悲鳴。
「指切ったん?」
後ろから声をかけると、わっ、とまた小さな悲鳴を上げた。
「そない驚かんでも……」
佐藤は左手の人差し指をぱくっと口にくわえる。
「きざむんは苦手や……ちょっとだけ切ったけど、大丈夫」
指をくわえたままの佐藤と、まな板の上のネギ。こまかくきざもうと奮闘した跡は見受けられるけど、指を切ったとなると、不安。
「あたしやるわ」
「寝てなあかんやろ」
「けど、佐藤包丁使うん下手みたいやし、気になって寝てられへん」
ちょっとじゃなく、ざっくり切ってからじゃ遅いし。佐藤を押し退けてまな板の前に立つと、包丁を握る。ふらつかない。ネギをきざむくらいなら、佐藤よりうまくできる。
ちらっと横を見ると、すぐ側のコンロの上で、一人用の土鍋に満杯のおかゆ、らしきものがぶくぶく煮えている。
「これ、二人分のつもりで作ったん?」
「いや、一人分のつもりやってんけど、米ってえらい膨らむねんなあ」
冷蔵庫の中身をとりあえずきざんで放り込みました、みたいな、米を煮たもの。おかゆです、と言われてもすぐには信じられないような外見。
「佐藤も、責任持って、半分平らげてな」
とりあえずもう手遅れかも、と思いながらも宣言して、調理を引き継ぐことにした。
ネギをきざんで、卵をといて、おかゆらしきものの中身を確かめて。
作ってる間、佐藤はずっと側に立ってた。当たり前のように。他愛ない話をしながら、ずっとそうだったように、いつものことのように振る舞っていられた。
それが、とても嬉しかった。
「思ったより美味かったなあ」
缶コーヒーを飲みながら佐藤が言った。
その隣りで私は風邪薬を水で飲む。
確かに、食べてみるとまあまあ美味しかった。おかゆと呼んでいいかはちょっと悩んだけど、何とか平らげられた。
このまま、何にもなかったみたいにしていられたら、今まで通りにしていけたらいいのに。
けど、そういうわけにもいかない。髪の綺麗な彼女のことは、思い出したくなくてもすぐに浮かんでくる。
その話は体調よくなってからにしよう、と佐藤は言った。でも私は、今聞きたい。
聞くなって声が聞こえるわけでも、聞いておかないといけないと思うわけでもなくて、聞きたいと思った。
食器を積み重ねて台所へ運んでいこうとする佐藤のTシャツの裾を掴む。怪訝そうにこっちを見た佐藤は、私の目を見て、真面目な顔つきになった。
「……もう、その話?」
佐藤は頭がいい。私の考えてることを読んで、先回りする。
黙ってると、佐藤も黙ったまま。
「これ、置いてくるから、ちょっと待っとって」
Tシャツの裾を掴んでる内は歩き出さない。佐藤の言葉に手を離すと、やっと歩き出す。
佐藤は台所に行くだけなのに、何でこんなに心細くなってしまうんだろう。
佐藤が台所から戻ってきただけで、何でこんなに安心してしまうんだろう。
これから聞くことで、それが全部意味をなくしてしまうかもしれないのに。
「えーと、何やったっけ」
「何でここ来るまでの道とか知っとったん?佐藤呼んだことなかったのに」
「……よう覚えてんなあ」
佐保は記憶力ええもんなあ、と佐藤がぼやく。佐藤ほどじゃないけど、と言ってやろうかと思ったけど、話がそれそうだと思ったのでやめておく。
「好きな子の住んでるとこまでの道程くらい、覚えとくて」
照れもせずにきっぱり。言い切られたこっちのほうが照れてしまいそうだ。
「いつ家まで送ったりできる機会があるかわからんやんか。今回も一応役に立ったやろ?」
「で、でも、何かそれ、ちょっとアレみたい……」
「別につけ回して調べたわけやないやないか。親父に、引越しの挨拶しに来て住所言うてったくせに」
「まあ、そうなんやけど」
「ここ、来るん初めてやぞ。地図は見たことあるけど、事前に実際に来て下調べとかはしてへん。それをアレて、何、ストーカー?」
「う、まあ、それはそれでええとしても、彼女のことは、どない説明するんよ?」
劣勢だ。慌てて話を変える。でも、これについてなら、言い逃れなんかできるはずがない。
自分の彼女を放って、父親の親友の娘を看病しに戻ってきた。そういうことなんだろうけど。佐藤の口からちゃんと聞いて、彼女が誤解してないかも確認しとかないと。
じっと目を見る。こんな時だけど、佐藤の目は、やっぱりとても綺麗だ。吸い込まれそう、って表現、あれってホントだ、とか思ってしまう。
佐藤はしばらくは私をまっすぐに見返してたけど、その内わずかに視線をそらして、それから溜め息をついた。
「彼女やないよ」
その後に、そんなんやないよ、あれは。と続ける。
「あ、あれ、て」
あんまりな言い方とその内容に、混乱する。
じゃあ、あれだけ噂立ってるのは、何なの?
「向こうはどうか知らんけど、俺にはそんなつもりなかった」
「で、でも、『俺今ふられて落ち込んでるから、慰めてくれるんなら付き合ってもいい』って、彼女に言うたんちゃうのん?」
「何それ?」
「そういう噂聞いたんやけど」
私の口から聞いた言葉に本当に驚いたらしく、佐藤は絶句して、その状態でしばらくフリーズしていたけど、またひとつ溜め息をついて肩を落とした。
「……佐保のこと、忘れさせれるもんやったら忘れさしてみろ、て言うただけやし、結局そんなん無理やったし」
何てことを言うんだ、佐藤ってば。
「それ、えらいひどいことない?」
「大丈夫や、最終的にはお互い様って感じになったから」
やっと何とか言えたと思ったのに、佐藤はもう普通に戻ってる。
「あの子、色々根掘り葉掘り聞いてきよったんよな。やっぱり外人やと生活習慣とか違うんかとか。で、将来結婚する人は文化の違いとか親戚付き合いで結構大変そうやとか。そういうこと、ホンマ面白がってるだけやてわかるように、ぺらぺら喋るんよな」
そういうことは、今までにもあった。佐藤に愚痴られたこともあった。最近じゃ全然なくなってたけど。こういう内容で愚痴ってた佐藤は、いつもものすごく不機嫌だった。今もそうなのかと思ったけど、そうでもないみたい。
「俺は国籍も日本やし、親も日本人やし、文化も何も、別に違わへんのにな。勝手に外見から判断して、そういう風に決めつけて」
本当に、機嫌が悪いというわけではないみたい。冷静に意見を述べている、そういう感じ。大人びた態度に見える。
「そういうんは、知ってへんとなかなかわからへんから」
彼女のフォローというつもりじゃないけど、私はそう言う。
「あの子、あからさまに面白がっとったってわかったからなあ。珍獣扱いされて、ええ気はせえへんねんから、彼女とかそんなん、よう思わんわ」
平然としているように見えた。昔は、こういう話をする時は、最終的には怒り出してた。いつからかそんなこともなくなって、別に大したことじゃないし、と思っているように見えた。
けど、見えるだけだ。うまく抑えこんでいるだけなんだ。今それがわかった。
動揺した。
佐藤は、見てるこっちが苦しい、切ない目をしていた。
「あの子、て呼んでんの?」
動揺して、どうでもいいことが気になってしまって、つい訊いてしまった。
「まさか。……でも、呼んだことないわ。名前なんか知らんしな」
「……それ、やっぱりひどない?」
「お互い様やて。あの子は俺の事情なんかホンマはどうでもよかったんやし、俺かて、あの子のことなんかどうでもよかったし」
全く躊躇なく佐藤が言ったので、圧倒されて、何も言えなくなってしまった。
「せやから、彼女ちゃうし。過去にそうやったて言われても、とにかく、今はもうちゃうし」
そんな風に言うなんてひどいな、と思いながらも、どこかでホッとしている自分がいるのがわかる。そんな私もひどいかもしれない。
「俺は佐保以外のことはどうでもええんやてわかった」
今度は私がフリーズする番だった。しかも、ほぼ機能停止ってところまで、しっかり。
「佐保は俺やったらあかんのか知らんけど、俺は佐保がええ。他は、どうでもええんや」
何でそれがあたしやの。
そう訊ねようと思うのに、口が動かせない。
熱が上がったのかと思ってしまうくらい、頬が熱い。
でも、頭はぼんやりとはしていない。他のことが何にも考えられなくなってしまってるだけ。
何で佐藤は私が好きなん?
今も佐藤は私が好きなん?
……私は佐藤が好きなん?
どれも答えは出ないまま、問いだけがぐるぐると頭の中を回ってる。
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