□ 過ぎる夏 17
17.焦る必要なんか
目が覚めて、大きな洋風の窓にかかったカーテンの隙間から眩しい朝日が差し込むのを見て、昨夜どこに泊まったのかを思い出す。
まだ完全に覚めきらなくて、ぼんやりしている頭で、カーテン開けなきゃ、と考える。
体を起こそうと、ついた手に力を込めたら、ベッドがわずかにきしんだ。
普段使っていない部屋、といいつつ、きちんと掃除はされている。ふかふかのマットレスの感触は、普段布団で寝起きしている私にとっては、滅多に味わえないもの。
昨夜も少し、この弾力を楽しんでみた。誰も見ていないのをいいことに、ベッドの上に飛び乗ってみたりとか。
そうやっていないと、色々と考えてしまうから。
佐藤のこととか、父さんと母さんのこととか、おばちゃんのこととかおじさんのこととか、私のこととか。
いろんなことが浮かんでは消えていく中で、昨夜洗い物を手伝ってた時におじさんに言われた言葉が、一番思い出す回数が多かったのは間違いない。
「こうやってると、早季子さんが家の娘ならいいのになって思うよ」
おじさんは、言えば私が混乱することも見越してたんだろうと思う。本当にそう望んでるのか、からかってるだけなのか。それはさすがにわかる。望みが、純粋に好意から出ているだろうことも。
そう言われても、こればっかりは。佐藤は私を好きで、もし私も佐藤を好きでも、そういうのはもっと遠い先の話で、今どうこう言えることじゃないから。
佐藤の目も、やっぱり繰り返し思い出してた。
青い色。自分が持ってないものだから憧れる、というのも多分あるんだろうけど、そういうことよりもまず、深くて、見る角度によって微妙に色を変える綺麗さに、つい見入ってしまう。
今までもきっと、佐藤は、笑って軽い口調で私に話しかけながら、時折ふと、真剣な目をしてみせたりすることがあったんだろう。私がそれには気づかずにいただけで。
ずっとずっと、私は気づかなかった。佐藤が私に好きだと言わなければ、今も気づかないままだったかもしれない。
でもそれは確かにあったんだ。
悩めば問題が解決する。考えれば答えがわかる。そんな風にはうまくいかないとわかっていても、私は色々と考えてしまって、なかなか寝つけなかった。
私が思い悩む以上に、佐藤の方が苦しいだろうに。
伝えても答えをもらえない。引き下がろうとすることを引き留めるような反応を見せられる。
それでも、好きだからいいんだと言える。
私にはないものを、佐藤は本当にいっぱい持ってる。同い年なのに、もう既に果てしない差がついてしまっていて、いつまで経っても私が佐藤に追いつける日なんて来ないんじゃないだろうか。
努力すれば、成績は上げることができる。それでも、私は佐藤に敵わなかった。じゃあ、努力しても結果に結びつくかどうかは別の話って事柄では、もっと佐藤には敵わない。
好きとか嫌いとかいう前に、悔しいって思ってしまう。
大学生になって、一人で暮らし始めて、自分で決めて進んでいかなきゃいけないことが増えて、私は、少しは大人になったつもりでいたのに。
佐藤に悔しいという感情を抱く時点で、私はまだまだお子様なんだ。
「佐保?」
ドアをノックする音と、音量を抑えて私を呼ぶ声。佐藤だ。
「なに?」
「起きてるねんな。朝飯どないする?」
「すぐ行く。手伝うから待っとって」
返事をしながら時計を見る。もう九時を回ってる。
わかったという佐藤の声が聞こえた後、足音が遠ざかる。それを聞きながら、借りたパジャマのボタンに指をかける。
だぼだぼで、腕も足も何回か折り曲げて、一番上まできっちりボタンを留めて着ている綿のパジャマ。佐藤の。
中学の頃から、既に佐藤の方が背が高かった。身長差は縮まるどころか広がっている。顔つきも、体も、態度もしぐさも、佐藤はもう大人だ。
そんなことを、パジャマから思い知らされるとは思わなくて、誰も見ていないのに私は苦笑いした。
昨日着ていた服に着替えて、借りたパジャマとベッドの上の布団を畳んで、洗面所に向かう。
昨夜借りた洗面用具をもう一度使って歯を磨いて顔を洗って髪をとかして。
鏡の中の私は、少し眠そう。鏡を覗けば毎日会える、いつもと変わらない顔。
昔から変わらない。大学生になったらもっと大人っぽくなるもんだと思ってたけど、そういうもんじゃないらしい。この前の合コンで化粧された時はさすがに、大人っぽいというか、見た目の年齢は高くなったはずだけど。
手ぐしで髪を整えていると、台所から佐藤の呼ぶ声が聞こえる。
ちょっと慌ててる声。行ってみると、目玉焼きを焼いているところだった。
「あー、皿、間に合わんかったなあ」
フライパンの中で目玉は潰れてしまってる。佐藤は、料理をする時は何でも大雑把だ。おかゆと焼きうどんでそれはわかってる。
フライパンには油はひいてない。焦げつき防止の加工がしてあるフライパンではないので、しっかり卵がくっついてしまってる。視線を横にずらすと、コンロの近くに置かれてるパックに入ったベーコンに気づいた。
「何で先にベーコン焼かへんの?ベーコン先に焼かへんねやったら、油ひかんと」
「え、そうなん?」
「油なしで卵焼いたらくっつくって」
皿が間に合うとか間に合わないとかいう話じゃない。
でも、呆れてしまいそうな私の目の前に立ってる佐藤は、フライパンとフライ返しを持って、情けない顔をしていて、しかも今気づいたけどエプロンなんかしてて。
「佐藤、エプロンよう似合てるよ」
私は笑ってしまった。
拗ねたような表情になった佐藤を横目に、もうあと二人分の潰れていない目玉焼きとベーコンを焼いて、コーヒーを淹れて、朝食の用意を整える。
佐藤に起こされて、完全に二日酔いって感じで姿を見せたおじさんは、それでもにっこり笑って、「久々のまともな朝食だ」とやや芝居がかった言葉を口にした。
佐藤の表情が益々拗ねたようなものに変わって、私はまた笑った。
佐藤の家に遊びに来ても、大抵はおじさんの書斎で過ごす。おじさんは本をいっぱい持っていて、大阪に住んでいた時の家も、大きな書斎があった。
父さんがいた頃は、おじさんと父さんが居間でチェスやら将棋やらをやりながらいろんな話をしているのを聞きながら、近くで本を読んでいたけれど、今は違う。
私が書斎にいると、おじさんは書斎の片づけを始めた。春に越してきて、まだ片付け終わらない本や書類があるんだそうだ。
「多分、探せば司の小さい頃の写真も出てくるよ」
おじさんがにんまりしている。佐藤は今洗濯をしているらしい。本を手にしてはいるけれど、おじさんがあんまり楽しそうに次から次へと言葉をかけてくるから、ほとんど読めないまま。
お喋りは楽しくて、話が弾んでいる時に佐藤が書斎に入ってきて、また拗ねた顔をする。
おじさんと二人して私を笑わせる為にやっているんだと思っていたけど、この時の佐藤は本気で拗ねていたらしいと、後になって気づいた。その頃にはもう日が暮れていて、夕食も一緒にという誘いを断って帰ろうとするところだった。
夕食を一緒に食べないなら、せめて駅までは送る、とおじさんがついてきて、三人で駅まで歩く。
車で送ろうか、と言ったおじさんに佐藤が反対して、多分佐藤は電車に乗って家まで私を送っていくつもりだろう。「親父は邪魔せんとさっさと帰ればええねん」って佐藤がきっぱり言ったから。
「ええ歳して、三人で横一列に並んで歩いとったら、アホや思われるわ」
おじさんが譲らないから、佐藤はそう言って少し前を歩いて、おじさんは私の横にぴったりついて歩いてる。
いっぱい笑ったなあ、と思い出しながらも、前を歩く佐藤の背中を見ていると、何だか落ち着かない。
焦ってるんだと、今はわかる。
焦る必要なんかない、と言った佐藤の背中を見ながら、私はやっぱり焦ってる。
「早季子さん」
おじさんが私をそっと呼んだ。前を歩いてる佐藤は、聞こえないのか振り返らない。多分、気づいていない。
「悩めるのも今だけかもしれないよ?何にも、焦る必要なんか、急ぐことなんか、ないんだよ」
おじさんが悩ませるようなこと言ったくせに。
でも、悩むってわかってて言っておいて、その後こうやってフォロー入れてきたりする。しっかり見抜かれてる。そんなに私はわかりやすいんだろうか。
「……おじさん、楽しんでるでしょう」
言ったら、おじさんは子供みたいに笑って見せた。そしてその後すぐ、その笑顔が変わっていく。
見ていると、佐藤の「何も、佐保が焦る必要なんかないやろ?」って言葉を思い出した。記憶の中、佐藤は穏かに笑う。目の前のおじさんも、今同じように穏かに笑ってる。
佐藤を見る。少し距離が開いてしまってる。それでも、これ以上距離が開かないように、歩幅を調整して歩いてる。
それで、いいのかな。
そうやって悩めるのも、今の内なら、いっぱい悩んでおけばいいのかな。後になって、呆れるほど簡単だったのに何であんなに悩んでたんだろうって笑い話にしちゃえばいいのかな。
おじさんと、記憶の中の佐藤に、私は頷いた。
それでやっと、私は少し落ち着くことができたようだった。
少し先の信号で、青なのに渡らないで佐藤は私達を待っていた。そこへ着くと、今度はおじさんが前を歩いていく。
日が暮れてしまってるから、もう何を言っても佐藤は私の家まで着いてくる。電車に乗って、私を家まで送って、同じ道程を一人で引き返す。
「大丈夫やて、一人で」
わかっていて一応そう言ってみた。やっぱり佐藤は首を縦には振らない。
「俺がそうしたいんやから、そうすんの」
折れない。そういうところも相変わらず、変わらないまま。
そうしたくなくなったら?もういらなくなったら?
思わず考えてしまって、立ち止まる。
「そない嫌がっても、俺しぶといんは変わらんて。ええ加減諦めって」
私を見て、佐藤が笑う。全てお見通しだったりするのか、それとも、何気なく口にしただけの言葉なのか。私には判断はつかない。
それでも。
焦って追いかけて走ることはしなくてもいいのかもしれない。
佐藤は、待っていてくれるのかもしれない。
私が追いつくまで、少し先で。
佐藤の笑顔は、私をそんな気持ちにさせた。
back /
next
過ぎる夏 index /
1 /
2 /
3 /
4 /
5 /
6 /
7 /
8 /
9 /
10 /
11 /
12 /
13 /
14 /
15 /
16 /
17 /
18
text /
index