□ 過ぎる夏 6
6.夏が終わる
あの夜。
佐藤は、傷ついた表情を一瞬で消して、小さく、そっか、とつぶやいた。
その後はもう、お互いに一言も口をきくことができなかった。
無言の空間に、花火の音と光が発生しては消えていくだけ。
花火が終わってしまうと、佐藤は何も言わずに部屋を出て行った。
その夜はそれっきり佐藤とは顔を合わせなかった。私は部屋から出ることができないまま、胸の痛みを持て余してた。
眠れないまま朝が来て一階に下りると、既に身支度を整えた佐藤がいた。
おはよう、と挨拶する声も普通で、私の返したおはようのほうがよっぽどぎこちなくて、何だか情けなくなった。
帰るわ、俺。佐藤はそう言って、まだ朝も早い内に家を出て行った。いつも通りの笑顔さえ浮かべて。
それっきり。
別に、もう友達じゃいられない、とか、これからも友達でいよう、とか、漫画やドラマで見聞きするような展開は、何にもなかった。
この先どうなるのかとか、そういうこともわからないし、何かが変わってしまったのか、変わらないままでいられるのか、そういうこともやっぱりわからない。
付き合えないと言った後のほうが、私が佐藤のことを考える時間が増えた。
それまでもずっと佐藤のことばっかり考えてると思ってたのに、そんなもんじゃ済まなくなっていた。
昔のことも、最近のことも、思い出すのは佐藤のことばっかりになってしまっていた。
その後も私は予定通りおばちゃんの家でのんびりと夏休みを過ごした。
あんまりのんびりしていて、予定の日にも東京には戻らなかった。
戻れなかった。
「さっちゃん、学校、始まるんとちゃうの?」
「ううん、まだ余裕あるし、ええんよ」
「そう?」
おばちゃんは、佐藤のことは、何も訊ねてこなかった。多分、何かあっただろうことは察してて、訊かないでいてくれてるんだと思う。
日が落ちると涼しい風が吹く日が、少しずつ増えていく。虫の鳴声も、種類が変わっていく。
今年の夏は、佐藤一色だ。
花火の日から1週間、2週間、3週間経っても、思い起こす度に体が急速に冷えていくような、高い所から一気に叩き落されるような、そんな感覚が体を包む。
付き合えないと返事したことは、間違ってない。
今でもそう思うし、その部分は私の中で変わることなくしっかりしているのに、私は揺らいでいた。
嫌いなんじゃなかったのに、「はい」と返事ができなかったことは、私にも辛かったみたいだ。
じわじわと効いてくる。
時間が経てば経つほど効いてきて、私にどんどんダメージを与えた。
衝撃は一瞬だったけど、それがもたらした痛みは、消える気配がまるでない。どんどん深くなっていく。
好きではなかったはずなのに、いつの間にか、好きになっていたんだろうか。
私が佐藤を好きだって言うのなら、私は佐藤の何に惹かれたんだろう。
外見とか、境遇なら、佐藤も私も同類だ。
そんなものは、「好き」とは違う。
好きではないはずなのに、どうして苦しいままなんだろう。
「サトウさんて、義兄さんのお友達の、佐藤さんの息子さんなんやね」
何をするでもない、だらだらと過ごす8月末の晴れた日の午後、麦茶を入れてくれたおばちゃんは唐突にそんなことを言った。
「知ってるん?」
「佐藤さんは、姉さんに会いに、よう義兄さんと連れだって遊びにきはったよ。まだあの頃は結婚のけの字もなかったわ」
「へえ」
「若い頃の義兄さんも佐藤さんも、そら男前でね。……あ、歳いってからも男前やけどね。あたしも、ちょっと憧れたもんよ」
佐藤のお父さんは、確かにカッコイイ。大学でも、生徒に、特に女生徒に人気があるとか。
「かっこいい男の人て、いっぱい種類あるけど、どの人も良う見えて、どきどきするわね、ええ歳しててもね」
頬に手を添える可愛らしいしぐさで、おばちゃんはそんなことを言う。
「サトウさん、かっこええだけやのうて、礼儀もしっかりしてるやない?そういうのにまた、弱いんよねえ」
「でもな、おばちゃん、佐藤、あれでも結構失礼なこと言うとったで、昔は。あたしもきっついこと言われたことあるんよ」
「でも、今はそないなこと言わはらへんでしょ?」
「そらもう、ええ歳やもの。子供やないんやし」
「子供やないからわかることもあるわねえ」
おばちゃんの言いたいことは、よくわからなかった。ただの世間話のつもりだったと言われればそうだし、そうでないとも取れる。
麦茶が、いつもより少し苦い気がした。
9月に入っても、私はまだ大阪にいた。
まだ戻れないでいた。
佐藤のことで頭がいっぱいのまま夏は過ぎていって、そのことに困惑したけれど、その状態から抜け出すことは遂にできなかった。
いつもは、携帯にちょくちょくメールが来た。大した用もないのに、佐藤はこまめにメールを送る。相手は別に私だけじゃなかった。でも、今は、佐藤からのメールは来ない。
もう、来ないかもしれない。
私と佐藤が親しくするきっかけになった父親同士の交流も、父さんが亡くなったから、今はもうない。
それでも、大学も、学部も一緒だから、接点はあった。
この先はどうなるだろう。
漠然と、変わってしまう気がしていた。
多分、何も変わらないなんて、ない。
さすがにこれ以上引き伸ばせないから、2ヶ月弱ぶりに私は東京の自分の部屋へ戻った。
アパートの郵便受けを覗くと、広告やダイレクトメールに混じって、暑中見舞いや残暑見舞いの葉書が入っていた。
高校時代の友達や、大学の友達からのもの。大阪に帰ることは話しても住所までは教えなかったのに、こっちに送ってくれている子がいた。
もう秋だけど、ちゃんとお礼を言わなくちゃ。そう考えながら一枚一枚をめくっていく。
佐藤ほど綺麗な文字で書かれた葉書はなかった。
部屋に入って、換気の為に窓を開けて、パソコンの電源を入れる。ネットに接続してメールを受信する。
こっちにも、佐藤からのメールはない。
当たり前だ、と頭でわかってるのに、どこかでがっかりしている。
同じ学部の子のメールがあった。
夏休みにどこに旅行に行った、とか、近況を記した後に、エクスクラメーション・マークの比率がやや高い文章が続いてる。
『ねえ、佐保ちゃんって、佐藤くんと親しかったよね?!佐藤くん、うちの学部の子と付き合ってるんだってね!誰が告っても落ちなかったのに、驚いた!まあ、結構可愛らしい子だけどね。美男美女っていうの?でもさあ、あたし、佐藤くんと付き合うのは佐保ちゃんだと思ってたんだけどね。佐藤くんから何か聞いてる?今度裏話でも聞かせてね!』
……早いなあ。
正直な感想は、ただただ、それだけだった。それ以外、何も頭に浮かばなかった。考えることを拒否するみたいに。
気持ちをすっぱり切りかえられたのなら、何よりだ。
少し経って、そう思えるようになったけど、何かが引っかかって、取れなくて、どこか苦しいまま。
未だに私は、自分の気持ちさえはっきりわかっていないんだ。
でもこれで、佐藤のことばかり考えて過ごした夏を、終わらせるべきだ、という気持ちにはなった。
もうすっかり秋だ。夜になるととても涼しい風が吹く。
今体が冷えていく感触は、風が冷たいせいだ。
……そのはずだ。
接する機会は簡単に途絶えた。
巧妙に避けられているのか、偶然なのか。夏休みが終わっても、私はなかなか佐藤に会うことはなかった。
学食で同じ学部の子と昼食を取っていると、やっぱり色々と聞きたそうにしていたみんなが、少し躊躇ったものの、結局は佐藤の話を始めた。
「……あたしが佐藤をふった?」
「噂広まってるよ」
「うそ」
「佐藤、彼女に告白された時、『俺今ふられて落ち込んでるから、慰めてくれるんなら付き合ってもいい』って答えたんだってさ」
「ふった相手ってのが佐保ちゃんだって、どっからわかるわけ?その噂でさ」
「彼女自身が嬉しそうにべらべら噂広めてんだと」
「うわっ、そんな女と付き合ってんの?佐藤くん趣味悪くない?」
その後はもう、会話に加わるどころじゃなかった。ただ呆気に取られていた。
どうして、私に非のない理由で、私が噂にならなきゃいけないんだろう。
誰も、私自身には関心がないんだ。佐藤が優先。佐藤のおまけみたいな私。
中学の入学式の時みたい。
その後、並んで歩く、長い髪の綺麗な女の子と佐藤を見た。
多分、あれが噂の彼女だろう。
遠くから見ても、よく似合う二人だと思った。絵になる、という言葉がぴったりくるような。
私では、ああはいかない。
浴衣すら似合わないし。
敵うものが、何もない。
風はもう随分と涼しくなった。
苦しいまま、夏が終わる。
佐藤のことばっかり考えてた夏が。
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