□ 過ぎる夏 11
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11.そういう顔

 喉が渇く。とても。
 そんなに喋り続けたわけでもないのに、うまく声が出ないほど、渇いてる。
「熱、上がってへんか?」
 佐藤が手をのばしてきて、額に触れる。ひんやりして気持ちいい、と感じる。
「やっぱりまだようなってないんやから、寝とき」
「平気」
 やっと出した声は、信用してもらえないに違いない、とすぐにわかるほどかすれてた。
「お茶、淹れてくるわ」
 温かい飲み物が欲しい。台所に移動しようとすると、佐藤がついてこようとする。
「座っとって」
「けど」
 佐藤はいつも折れてくれない。今もまた、そうなのかも。でも、今はちょっと。
「大丈夫やから」
 ちょっとぐらい、折れてくれてもいいのに。ちょっとだけでいいから、ぐるぐる回ってぐちゃぐちゃになりそうな頭の中を、整理しておきたいのに。
「……気いつけや」
 佐藤の表情が曇る。私の体を心配してくれてるからなのかもしれないけど。でも、こんなささやかなことさえ私は嬉しく思ってしまってた。
 台所に立って、深呼吸。
 訊かなきゃ。
 何であたしなん?
 それを訊かないままでは話が進まない。
 でも、私の気持ちはどうなんだろう。それも、訊かないとわからないんだろうか。
 そんなことも自分でわからないのか、私は。
 必死でやった受験勉強のことなんか、今唐突に思い出したりしてる。
 難しいけど、考えれば考えただけの手応えがあった。問題を解く楽しみを味わう余裕があるときさえあったのに。
 今は全然だ。夏の初めから、夏の間中ずっと、夏が終わってからも、ずっと考えていたのに。

 佐藤の目の前に、湯呑に注いだお茶を置く。一人暮らしだしほとんど人を呼ばないから、湯呑は自分の分しかない。私の分のお茶はマグカップに注いだ。
 お茶を飲んで、息をついて、またお茶を飲む。落ち着かない。
 理由を訊ねるだけでこんなに大変なら、思いを伝えるのはどれだけ大変なんだろう。
 落ち着かなくて様子が変だと佐藤は気づいてると思う。落ち着かないけど、私だって訊きたいんだから、黙っていても仕方がない。
「何で、あたしなん?」
 佐藤には唐突な言葉だったかも。説明が足りない。
「佐藤は何で、他の女の子やのうて、あたしがええて思うん?」
 慌てて付け足す。訊いている私がこんなに落ち着かないままなのに、佐藤はどうみても普段通りというか、冷静って感じにしか見えない。
「……何でやろな?」
 少し考え込むような目をして、その後、自分でもわからない、という口調でそう言った佐藤。うろたえることもない。本当に冷静なんだろうなあと思う。
「せやなあ……佐保にさ、俺、最初に結構ひどいこと言うたんやけど、佐保、別に文句言わんかったよな」
「……中学の入学式の前?」
「そう」
「英語で何か言うとったやつのこと?それは、意味わからんかったし、英語に圧倒されて何も言い返されへんかっただけやわ」
 未だにあの口調は覚えてるけど、何て言われたかまでは覚えてない。今となってはぶつけられた英単語が思い出せないから、意味を調べようがない。
「意外やったんや。噛みついてくるかと思とったから。けど、あっさり引いたから、そっからちょっと気になっとったかな」
 あっさり引いたのは、佐藤の為ってわけじゃなかった。父さんを困らせたくないだけだった。言い返そうとして、諦めただけだった。だからその後、しばらく口もきかなかったのに。
「佐保は俺に関心がなかったやろ。避けてるような感じやったもんな。色々訊いてきたりもせえへんかったし」
「興味が湧いたら、父さんに訊いたら教えてもらえたやろし、佐藤に聞く必要はなかったけど」
「佐保は、俺にむかついたから避けとったんやろ。俺の目の色も髪の色も、関係なかったやろ?」
「それは、そうやけど」
 思い出し笑いなのか、佐藤がふっと笑みをこぼす。そして視線を私から外した。
 私は、思い出すとちょっと恥かしい。佐藤は私の前の席だったのに、一言も口をきかなかったなんて、子供だったなあと思う。
「イギリスにおった時な、見た目ではそら馴染んどったんやろうけど、学校とかで、俺は他の子とはちゃうんかなて思うこと、たまにはあった。クラスメイトが俺の名前呼ぶの、何や言いにくそうやったりとかな」
 何となく想像してみる。イギリスにいれば、イギリスの人からは外国人だと見られる。名前が違うこと以外でも、そのことを実感する機会は割とあったんじゃないだろうか。
「日本に戻ったら、そういうん、一気に増えた。ひどなったて思うくらいな。外見は取り繕いようないやろ。どうしても浮いてまうし、目立つんやろし、興味も湧くから色々訊いてみたなるんも、わからんでもないんやけど」
 目立ってた理由の半分は、柔らかく光をはね返す金髪と、不思議な色合いの目にある。それは否定しようがない。圧倒的少数派である上に綺麗なもんだから、どうしても人目を引く。個人的には、それだけじゃないと思ってるけど。
「そんなん、うじうじ気にせんでもええんかしらんねんけど、俺、そういうとこで日本人らしいなあて、自分で思う。しょうもないこと気にしすぎやてわかるんやけど、何や怖かったりな。そういうんが重かった」
 佐藤には、よくイメージだけで語られる『オーバーアクション気味で感情表現豊かな欧米人』という感じは全くない。むしろその逆。どこにでもいる普通の日本人。私はずっとそう思ってきたし。
「佐保とおると、楽やった。佐保はホンマに、俺のそういう色々に興味ないて、ようわかっとったし」
 それは当たってる。父親同士が親しくして、結局はそれなりに親しくなってからも、私は佐藤のことにあまり興味はなかった。何となくは見ててもわかるし、わからないことは父さんか佐藤のお父さん、それか佐藤本人が口に出すから、それで問題なかった。
「最初は、楽やて、思てるだけやと、思とったんやけどなあ」
 ちょっと笑って、私のほうに視線を戻す。
「居心地ええなあて思てるんに気いついて、気になったりとかして。ホンマ何でなんやろなあ、いつの間にか佐保やないとあかんようになってもうてた」
 ほんの少しだけ、佐藤は笑ってた。その上で穏かにそう言い切った。
 佐藤の穏かさにつられたのか、私も少しだけ落ち着いた。まだどきどきしてはいるけど、脈拍をうるさいと感じる程ではなくなった。
 居心地がいい。今も、そう思えなくもない状態だと感じた。

「距離取ったら少しはて思たけど、やっぱりあかんわ。無駄なんやったら今まで通りに戻す」
 少しの間続いた沈黙の後。今佐藤は私を見ていない。
 今は私が佐藤を見ている。どこか遠くを見るような目をした横顔。
「そないすぐには、無理やけど、時間かかるやろし、時間かかったかて無理かもて思うけど」
 それが何の話かは、聞いているうちに飲みこめた。
「佐保の前ではそういうん、出さんようにしていくから、佐保も気にせんといて。何やったら忘れてしもてくれてええ」
 すぐ近くにいるのに、その横顔がとても遠いような錯覚に陥る。
「やっぱり俺は、佐保がええて思てまうから」
 自嘲気味に静かに笑って、佐藤は立ち上がった。もう目を合わせないだけでなく、こっちを見ない。
「とりあえず、佐保の体調もちょっと良うなったことやし、そろそろ帰るわ」
 部屋の隅に畳んで置かれていたパーカーを、体を軽く屈めて拾う。玄関に向かいながらそれを羽織る。流れるような動作で。
 振り向かない。
「佐藤」
 呼んでも、佐藤は振り向かない。
 立ち上がって玄関まで急いでも、足音は聞こえているはずなのに、佐藤は振り返ることなく靴を履いている。
 居心地のいい空気がぱっとなくなってしまったことを、呆気ない程簡単に理解していた。嫌だと思っていることも。佐藤がこのまま私を綺麗に忘れ去れるんじゃないかと思ってしまって苦しいことも。
 躊躇うことなくその手を掴む。掴んでどうするつもりなのか、自分でもわからないまま。
 そうして初めて佐藤は私を振り返った。
「そういう顔しいなや」
 佐藤の声は硬かった。静かだけど、穏かだとはもう思えなくなってた。
「そういう顔って、どんなん?」
 勝手に口が動いてた。自分では見えないから、わからない。
 一瞬で佐藤の表情が変わる。
 私の胸を締め付けて、呼吸をどれだけ繰り返しても苦しくてたまらなくさせる表情。
 そんな顔せんといて。
 言いたいのに言えない。
「多分、こういう顔」
 自分の表情を指して佐藤が言った。
 私の表情と佐藤の表情が同じだと言いたいみたいだけど、それはないだろう。私がどんな顔をしようと、佐藤の胸をこんなに苦しく締め付けたりはできない。そう思う。
 佐藤の顔が、ゆっくり近づいてくる。息のかかる距離まで。
 それでも私はまだ、佐藤の手を掴んだままだった。佐藤も、振り解こうとはしていない。空いているほうの手が、私の髪を撫でる。
「そういう顔、あんまし簡単に見せなや」
 そう言われても。
 髪を撫でている手の動きは、どこかぎこちない。
 頬が段々とほてっていくのを自覚する。直接触れなくても、すぐ側の佐藤に熱が伝わってしまってるかもしれない。それくらい頬が熱い。
 また少し佐藤の顔が近づく。
 何となく、この後何をされるのか、予想がついた。
 私は避けなかった。 
 その事に佐藤が驚いてるのが、髪に触れた手の一瞬の震えでわかった。
 かすかに触れただけのキス。すぐに佐藤の顔が離れていく。
「ごめん」
 しっかり掴んでいたはずの手は、強い力で簡単に外されて、佐藤は逃げるように部屋を出て行った。
 もう一度掴み直そうと手が動くことはなかった。目の前で部屋のドアが閉まる。
 私は呆然としていた。
 キスを避けなかった自分にじゃなく、ごめんと謝った佐藤に、衝撃を受けていた。


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