□ 過ぎる夏 9
9.嫌じゃなかった
いつの間にか眠ってた。
目を覚ますと、いつの間にか佐藤と向き合う体勢になっていた。
ぴったり腕の中に収まってて、腕にしっかり抱え込まれた状態で、すぐ側に佐藤の喉元があった。
いつの間に寝たのか、いつの間にこの体勢になったのか、全然覚えてない。
佐藤は華奢な男の子だった。これといってスポーツをしているわけでもない。なのに、今目の前にある佐藤の体は結構がっちりしていて、頼りなげな印象もなくって、そのことで変に緊張に似た感覚を覚えてしまっていた。
顔立ちがカッコ良くてどきどきしたことなら、いくら近くにいたからっていっても、何度もある。でも、今は違った。そういうのとは違う。
そんなことを考えてしまうのは、熱のせいなんだろうか。
室内には、オレンジの小さな電球だけが灯っている。窓の外は暗い。多分夜中だと思う。なのに何で目が覚めたんだろうかと考えて、身につけたままの服が汗ばんでいることに気づく。それが冷たくて気持ち悪くて、目が覚めてしまったんだろう。
まだ変な寒気は抜けていないから、とにかくどうにかしないと、と思うのに、布団から起き出すのも嫌になってしまう程寒い。このまま冷たいのは良くないってわかってても。
佐藤の服も冷たくしてしまいそうだから、と何とか気持ちを固めて、のろのろと体を起こす。起こさないように気をつけても、どうしても腕を動かさないと起き出せない。佐藤はぱちっと目を開けた。
「どないした?」
寝起きの、少し低い声。でも寝ぼけてたりはしない。
「汗、気持ち悪いから」
私の声の方がよっぽど寝ぼけてるみたいだった。
腕を離してくれるのかと思ったら、しっかり引き寄せられて、私を抱えたまま佐藤が起き上がった。
「着替えなあかんな」
私の背中に佐藤の手が触れただけで、冷たさにびくっとなる。かなり湿っているのが佐藤にも伝わっただろう。
「取ってきたるわ、どこにしまってあんの?」
さすがに下着とかは、頼めない。佐藤の腕から抜け出して、衣装ケースと洋服掛けの置いてある部屋の角まで。と思ったけど、佐藤は離してくれない。
仕方がないので、佐藤に支えられながら歩いていって、Tシャツやパジャマを取り出す。そこで手が止まる。
「ちょっと、外までジュース買いに行ってくる」
手が止まってしまった私を見て、理由を察した佐藤が離れていく。10分くらいで戻る、と言い残して外へ。
察してもらえてよかった。さすがに佐藤の目の前で堂々と下着を取り出すのは無理だったし、着替えまで手伝うとか言い出しかねない雰囲気だったから焦った。
気持ち悪い汗の量にぎょっとしながら全部脱いで、Tシャツの上に長袖のパジャマを着る。またすぐに汗でしっかり濡れてしまいそうだ、と思いながら、床に座り込んで衣装ケースの中をもう一度探る。
替えのパジャマはあと1着しかないし、パジャマの代わりに着て眠れそうな服がTシャツと短パンくらいしかない。でも、今から洗濯するのも無理だし。
今から、と思った所で時計を見た。テレビの上に置いたデジタル時計は、午前5時前。
随分寝たらしい。そういえば、佐藤はいつのまにかTシャツ姿になってた。上に着てたパーカーは脱いでしまったらしい。
駄目だ、寒い。座ったままずるずると床を移動して、布団の側にごろんと転がって、布団に入る。寒いのに汗が止まらないのが気持ち悪いし、おかしいと思う。熱があるときはこういうもんなんだろうか。経験がないからよくわからない。
玄関から鍵の音がして、佐藤が戻ってきた。手にはホットの缶飲料ばっかり持ってる。
「何飲みたいか、聞くん忘れとったから、色々買ってきた」
ブラックのコーヒーに、カフェオレ、カフェモカ、ミルクティーとレモンティー。
「好きなん、飲んどき。汗かいてるから、何か飲んどいたほうがええし」
佐藤はそう言ったけど、あんまりにも寒くて、私は缶を全部抱えて、布団に潜った。
「飲まへんのんか?」
喉が乾くというよりは、寒いのをどうにかしたい。缶を持ってても腕の中しか暖かくなくて、肩とか足とか、とにかく寒くてしょうがない。
「それ、置いとき」
布団の中に入ってきた佐藤の手が缶を取り上げて全部持っていってしまうと、本当に震え始めた。
今度は佐藤の体が布団の中に滑り込んできて、後ろからじゃなく、私を抱き締めた。
「このほうが、ぬくいやろ?」
耳元で聞こえる佐藤の声。
「でも、濡れるで」
どうせまた汗をかいて目を覚ますのに。何だか目が冴えている。あまり眠たさは感じない。
「別に構へん」
佐藤の腕に力がこもる。
それを合図にしたみたいに、私は急に咳き込んでしまった。
佐藤の片方の腕が緩んで、外れていく。それから、背中をさすり始める。
咳は、口元を押さえてもなかなか止まらない。あまり眠くないところへきてこれだと、益々眠れそうにない。喉がひりひりするし、肺が痛い。
「りんご食べて薬飲む?それともおかゆとか」
佐藤の言葉も、咳き込みながら聞いてる。当然返事はすぐにできない。
「……これ、風邪なんやろか」
風邪って、毎回こんなにきつくてつらいもんなんだろうか。疑問に思った。
「インフルエンザとか、麻疹とかでないとも言い切れへんけど、それは医者行かんとわからんな」
「そ、それやったら、こんな側におって、うつってもうたらやばいやんか」
軽い風邪をうつしてしまうのと、重い麻疹をうつしてしまうのとでは、全然違う。高い熱が出てしまったりとか、男の人は大人になってからはそれ、まずいんじゃなかったっけ、とか一瞬でそういうところまで頭が回った。
でも、今更、というところには頭が回らなかった。とりあえず距離を、と慌ててズルズルと後ろへ移動しようとする。それを、佐藤は簡単に阻む。強い力で抱え込まれたら、振り解けない。
「うつるんやったらもうとっくにうつってるって」
何でもないことのように佐藤が言う。
「でも」
「ええんや」
「あかんよ、しんどいし、大変やで」
「俺にうつしてしもたらええ。うつしたら治るて言うやろ」
平然と言っているようで、それは違うと思った。心臓の音が大きく速くなったのが自分でわかった。佐藤にも伝わったかもしれない。
「佐保が楽になるんやったら、俺にうつしてまえ」
声は静かなのに、その言葉はとても強くて、私は何にも言えなくなってしまった。
それでも咳は出る。横になってないと体はつらいのに、体を起こしている時よりよく咳が出るみたいで、そのまま眠れないでいたら、外が段々明るくなってきた。
すぐ後ろで、佐藤はウトウトしているようだけど、私が咳き込むと目を覚まして背中をさすってくれる。
でも、咳が収まり始めると、またウトウト。背中をさする手がぎこちない動きになって、やがて止まる。それがちょっと面白かった。
昼前には気持ち悪い汗は治まってたけど、咳がひどくなってた。
横になっていると咳が止まらなくてつらい、と言うと、後ろに回り込んで私の体を支えるように座られてしまって、少し余裕の出てきた私はとても照れて恥ずかしい。
「しゃあない、調子悪いんやし、そんなん気にしてる場合やないやろ」
佐藤はそう言うけど、私はここ半日から一日ぐらいの間のことを思い出して、熱のせいじゃない頬の熱さを自覚していた。
大体、何で佐藤はこんなに平然としてるんだ。照れたりしないもんなの?慣れてるの?
「電車の中とか……あんなん、知り合いに見られとったら言い訳でけへんわ」
「言い訳て」
「あんなぴったりくっつかれると思てなかったし。タクシーとかにしとけばよかったんちゃうん?」
「……あー」
斜め後ろ辺りから聞こえてくる佐藤の声の調子が、少しだけ変わった。
「まさか、今気づいたとか?」
まさか、そんなわけないよ。そう思って言ってみたのに。
「や、俺あんまし手持ちの金なかったし。大学からやと、電車の方が早よ家着くやろ?車やと結構遠回りな道になってまうし」
「そういえば、何でここまでの道知ってんの?佐藤、ここ来たことなかったやん」
あんまり言い訳がましく聞こえるから、気になるところは全部つっこんどこう。
「大体、何で戻ってきたんな?彼女、どないしたんよ」
私が質問を口にする度に、佐藤はあー、とかうー、とか意味のない音を漏らして、最終的に黙ってしまった。
「……黙られたら、わからへん」
この位置だと佐藤の表情も見えないし、何も喋ってくれないなら本当に何も伝わってこなくなってしまう。
「その話は、佐保が体調良くなってからにしようや」
少し間が開いてから、やっと佐藤が言った。
とても落ち着いているようには聞こえなかった。私を家まで連れ帰る間も、今までついててくれた間も、そんなんじゃなかったのに。
「でも、電車のあれは、佐藤らしないっちゅうか……」
ああいうの、絶対嫌いだと思ってた。べったりくっついたりしたら、いつも以上に人目を引くって、わかってただろうに。タクシーに乗っておけば、あれ程しっかり私にくっつくことも、視線を集めることも、なかっただろうに。
「……ごめん、頭回らんかったわ」
まさか、本当に今気づいたとか。まさかね。そう思おうとしたけど、無理みたいだ。
割と何でも器用にこなすところのある佐藤が、そういう風に喋るのを聞くのは、とても珍しいから。
自信なさげな、弱気な印象で。幼い子供が謝るみたいな感じ。
やっぱり、そんな佐藤は知らない。
初めて会ったときの偉そうに感じた話し方の、対極にある話し方と言葉だと思った。
「めっちゃ焦っとった。佐保が嫌がるとか、考えてる余裕なかったわ。ごめんな」
佐藤が謝ることなんか何にもないのに。責めてる訳じゃないのに。私の方こそ、迷惑かけちゃってるのに。……嫌じゃ、なかったのに。
謝ろうとして、息を吸い込んだら、また咳き込んでしまった。
佐藤の体が少し離れて、手が背中を優しくさする。
嫌じゃない。これっぽっちも嫌がってなんかない。それが自分でもよくわかってる。
謝るタイミングも、それ以上その話を続けるきっかけも、それっきり逃してしまった。
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