□ 過ぎる夏 8
text / index

過ぎる夏 index
/ 1 / 2 / 3 / 4 / 5 / 6 / 7 / 8 / 9 / 10 / 11 / 12 / 13 / 14 / 15 / 16 / 17 / 18


8.緊急事態やから

 ふらつく私の体を、佐藤は強く抱き締めるように引き寄せて、支えて歩いた。
 熱烈なカップルのいちゃつきにしか見えないような状態で、校内も、駅に向かう道も、歩いた。
 ものすごく目立ってると思う。
 ただでさえ人目を引く佐藤が、そんな風に更に人目を集めるようなこと、平然とやってるのが、私は意外だった。
 頭の中で再生される、佐藤と彼女の寄り添う姿。寄り添う、という表現は、今の私達の状態を思えば、使うのにためらう。今のこの、密着度から考えたら、あれはただ並んで歩いていただけと言ってしまえる程のものだ。
 その状態ですら、きっといろんな人からじろじろと見られて、佐藤はあまりいい思いをしなかったんじゃないかと思うのに、佐藤は今、比べ物にならないほど注目される状態を、自分から進んで作り出してる。
 駅の改札を通る以外は、全く離してくれない。
 ずっと、私の右頬は、佐藤の胸に押し付けられるような形のままで、背中から肩に回された腕が緩むこともない。
 電車に乗ると、もっと注目を浴びそうな状態になってしまった。
 混んではいないけれど、座席には空きがなく、降りる駅まで開かないドアの方へ寄ると、私をドアにもたれさせるように立たせて、その後、まるで何かからかばうように片腕で抱き寄せられた。
 立てるから、と言ったのに、佐藤は無言のまま私を離さない。
 体が重い。立っているのも、本当はつらい。
 少しくらいもたれかかったところで、佐藤はびくともしない。ほんの少しだけもたれかかる力が強くなっただけで、佐藤は私を両腕でしっかりと抱きとめた。
 どう見ても、電車でいちゃつくカップルだ。
 そのことに、普段なら私だってもっと照れて取り乱すはずなのに、風邪のせいなのか、私はそんなことを全く考えてなかった。
 とても居心地よくて、このまま眠ってしまえたらいいのに、と。
 ただそれだけ。
 どうして、彼女と歩いて行ったくせに、戻ってきたりしたのか、という疑問は、表面に浮上してくることはなかった。
 駅に着いて、家まで歩く途中、佐藤が私の鞄と佐藤の鞄を右肩にかけていることにやっと気づいた。
 そのことに気づいても、私のアパートまでの道を、佐藤が間違えずにまっすぐ歩いていく理由までは気づかなかった。
 部屋の前まで来て、鞄を受け取って鍵を取り出して、ドアを開ける。
 散らかった室内が不安で、踏み出せない。
「緊急事態やから、ごめん」
 立ち止まった私の背中を押して、玄関に入る。靴を脱いで室内に上がってる間に、佐藤はドアの鍵をかけてしまった。
 鍵のかかる音に振り返ると、私の胸を強く締め付ける表情をした佐藤と目が合う。
「……布団は、押入れの中?」
 目をそらすように室内を見渡して、私の返事を待つことなく押入れを開けると、布団を手早く床に敷く。
 その様子を見ている内に、立っているのが段々難しくなってきたので、床にぺたんと座る。
 佐藤は私を軽々と抱え上げて、そっと布団に下ろした。目を合わせると、佐藤はやっぱり視線を外す。
「薬とか、ないんやろ」
 掛け布団を直して、微妙に目を合わせないで、私の額に手を当てる。
 ひんやりと冷たい手だった。
「何か食べもんとか、買うてくるわ」
 手はあっさりと離れていって、佐藤も離れていく。
「鍵、借りるから」
 今までの、私の知ってる佐藤じゃない。さっきまで、体はしっかり密接してたのに、態度は、今までのどんな佐藤よりよそよそしい。
 戸惑う。
 よそよそしいのが嫌だと思ってしまうことにも。体がぴったりくっついても照れなかったことにも。
 体は重くて、頭はぼやけて、眠ってしまえばいいのに、眠れない。
 佐藤が戻ってくるのをまだかと待ち焦がれるような気持ちが、眠りを遠ざけてるみたいに。

「りんご、好きやったやんな」
 佐藤は帰ってくるなりそう言って、そのまま台所へ向かう。
 時計を見ると、7時前だった。佐藤はそんなに長く出かけてたわけじゃないのに、妙に淋しくて、今は妙にホッとしている。
 私、変だ。
 風邪のせいにしたって、おかしい。
「ちょっと、起きれるか?」
 佐藤はやっぱり返事を待たずに、敷き布団と私の背中間に手を滑り込ませて、私の体を起き上がらせた。
 最初、片膝をついてかがんだだけだった佐藤は、私のすぐ側に腰を下ろして、後ろから私を支えるみたいな体勢をとった。無言の内に、もたれかからせるように私の体を少し引く。
 幼い子供が病気になって介抱されてるみたいに、徹底している。そう感じたのに、不快じゃない。後ろから抱き締めるように支える手に、安心さえしている。
 剥かれたりんごを一切れ差し出してきた佐藤の右手に触れる。一瞬、佐藤の体が少しだけ震えた。けど、それは一瞬だけだったから、私は黙ってりんごを受け取って頬張った。
 鼓動が早くなることもなく、とても穏やかな気持ちにまま、私はりんごを食べる。
 背中がぴったり触れている佐藤からも、心臓の音は聞こえてこない。佐藤も多分、私と同じなのかもしれない。
 違う。そうじゃなくて、佐藤は多分、緊急事態だから、仕方なくこうしてるだけなんだ。父親の友達の娘だし、同級生だし、一応付き合いも長かったから、放っておけない。
 だから、か。
 唐突に思い出す、彼女のこと。
 仕方なく、戻ってきたんだ。本当なら彼女と過ごすはずの時間を、私を放っておけなくて。
 りんごは、少ししょっぱかった。色止めの為に塩水に軽く漬けたんだろう。
 一切れでもう食べられなくなった。
 父親の友達の娘だし、同級生だし、一応付き合いも長かったから。そう思って佐藤に接してたのは、私のはずだったのに。
 苦しい。
 風邪のせいじゃなく、苦しい。

 りんごを一切れだけ食べてもう食べられないと言うと、佐藤はちょっと考え込んで「しゃあないなあ」と言ってから風邪薬を用意した。
 カプセルの風邪薬を手のひらに、水の入ったコップを空いたほうの手に渡されて、それを飲む間も、佐藤は私を後ろから支える体勢でぴったりと寄り添っていた。
 飲み終わると私の手からコップをもぎ取って、私を布団に横たえる。
 体はもうかなり重くて、熱くて、本当に余計なことを考える余裕がなくなってしまってる。変な寒気がして、気持ち悪い。
 コップやりんごを片付けると、佐藤がタオルの在り処を聞いてきた。教えると、しばらくして氷水に浸したタオルを持ってきて、絞って額に当ててくれた。
 その時、かすかに触れた、氷水で冷えた佐藤の手が、とても気持ちよかった。もっと触れていて欲しいと思ってしまった。
 そんな思いが露骨に顔に出てしまったのか、佐藤の手は私の頬に長い間触れていた。
 でも、目は合わせない。
 自分でも、どういう気持ちで、何を望んでるのか、段々わからなくなってきた。
 熱のせいで本心が見えているのか混乱しているのか、自分でももう、判断がつかない。
「ホンマは、おかゆとか、作ろうかと思ててんけど、食べられへんねんなあ」
 ぐるぐる、本当に回ってる感じがする。そんな中に突然、佐藤の言葉が飛び込んでくる。それも飲み込んでぐるぐる回る。
「熱、測っとくか?」
 やっぱり目を見ないままの佐藤のその言葉も、ぐるぐる回って、意味が掴めなかった。
 狭い室内の電話機の横の棚に置かれた救急箱。その中から体温計を取り出して、佐藤が私に見せる。それで初めて熱を測れと言われていることを理解する。
 だけど、もう、それを受け取るだけの余裕がなかった。
 変な寒気がとても強くなってて、布団から手を出すだけでも寒い。
 布団を少し引き上げて、佐藤から顔を背けるように寝返りを打って丸くなる。それでももう、耐えられないくらい寒い。
「寒いんか?」
 佐藤の声に、何とか頷く。顔を出しているのも寒いと感じ始めて、私はもそもそと布団に潜る。
「夜間診療やってるとこか、救急、この辺にないか?」
 言葉の意味を理解するのに少し時間がかかった。でも、訊ねられてもわからない。風邪を引くこと自体かなり久々だし、かなり熱が出てるかもしれない今の状況は、私の覚えている範囲では初めてだ。風邪を引いて病院に行ったこともないし。
「親父呼んで、車出してもらって、病院行くか?それとも、うち来るか?」
 もう、首を振るだけの返事もできなくなってきた。布団に潜りっぱなしだと息苦しいから、少し顔を出してみるけど、そしたら途端に強烈な寒気が体を走っていく。
 かちかちと歯が鳴りそうなほど震える。つらい。
 でも、もう、余計なことは何にも考えられないから、それでもいい。
「緊急事態やから……ごめん」
 佐藤の言葉の意味も、もう考えられない。
 後ろから寄り添って抱き締められたことはわかっても、震えるほど寒い体にそれがどうしようもなく心地よくて、暖かくて、ただ離したくないと思うばっかりだった。
 布団ごとぎゅっと強く抱え込まれて、寒気を少し忘れ始めた。
 このまま眠ってしまいたいのに、何も考えられないくらいぼんやりしているのに、意識が薄れていくことはなかった。


back / next

過ぎる夏 index
/ 1 / 2 / 3 / 4 / 5 / 6 / 7 / 8 / 9 / 10 / 11 / 12 / 13 / 14 / 15 / 16 / 17 / 18

text / index